昭和天皇と全国御巡幸

昭和天皇と全国御巡幸(ごじゅんこう)
(御巡幸:天皇陛下が各地にお出かけになり、親しく国民と交わられること)
※ 授業の流れを追うように記述します。
※ ( )内は、板書して生徒に書き込ませます。
1.昭和天皇、巡幸を決意
[問1]敗戦直後の昭和20年10月、なぜ、昭和天皇は全国を御巡幸しようと決意されたのだと思いますか?
【資料1】を読んで、核心の部分にアンダーラインを引きなさい。
【資料1】
昭和天皇は、宮内府(くないふ)次長に次のように指示されました。
「この戦争により先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄(さいやく)を受けた。
この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈(くま)無く歩いて、国民を慰(なぐさ)め、励まし、また復興のために立ちがらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う。
わたくしとしては、このことをどうしても早い時期に行いたい。
ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやり抜くつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。
宮内官はその志を達するよう全力を挙げて計画し、実行してほしい」
●天皇の言葉に政府側の重臣たちは驚き、「警備上の安全を考えても、御巡幸は差し控えた方がよい」と反対でした。
しかも、当時の日本は米軍の占領下にあって、すべての行事にはGHQの許可が必要だったのです。
陛下の全国巡幸の計画を聞いたGHQは不審に思いました。
[問2]なぜ、GHQは天皇の「全国御巡幸」の申し入れを不審に思ったのでしょうか?
【資料2】を読んで、考えなさい。
【資料2】
世界の歴史では、戦争に敗れた国の王は「国外亡命」や「自殺」、「流刑」などで王家は途絶えてしまうのが常識です。
例えば、第一次大戦後、敗戦国ドイツのヴィルヘルム2世はオランダに亡命しています。
第二次大戦では、敗戦国イタリアの国王エマヌエレ3世は国外に追放され、長男ウンベルト2世が即位しましたが、わずか1ヶ月で廃位にされました。
→ 戦争に(1 負けた )国の最高の地位にあった人が、直接国民に会い、(2 励ます ) などということは、世界の常識では考えられないことだったから。
[問3]昭和天皇自らマッカーサーに面会して巡幸の実現を迫り、結局、GHQは巡幸を許可しました。
なぜ許可したのでしょうか?
【資料3】を読んで、考えなさい。
【資料3】
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、GHQ高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
「ヒロヒト(昭和天皇のお名前)のおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ」。
→ GHQの予想
=天皇は身の危険にさらされるかもしれない。
いずれにせよ、日本国民は(3 歓迎 )しないだろう。
●そんなGHQの声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれました。国民の反応を見るために、G
HQは二名のMP(アメリカ軍憲兵)を監視に付けました。
[問4]国民は陛下をどのようにして迎えたでしょうか?
ア 大歓迎 イ 拒絶反応 ウ 無視
2.昭和天皇、全国御巡幸の始まり
【資料4】を読んで、答えを確認しましょう。
【資料4】
昭和21年2月19日、神奈川県を皮切りに、東京都内へ、昭和天皇は各地で、一般国民・引き揚げ民・戦災孤児を励まされました。
最初のご訪問地・昭和電工川崎工場は空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていました。
一列に並んだ社員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれました。
感極まって泣いている者も多くいました。
二度目は都内でした。
焼け野原になった新宿では、群衆が昭和天皇を待ちかまえました。
陛下が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこみました。
以後、御巡幸先では、このような光景が繰り返されました。
天皇を熱狂してお迎えする日本国民を見てGHQは再び驚きました。
GHQは、小学生たちが禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたことを「指令違反」であるとして、巡幸中止を命じました。
しかし、御巡幸を期待する全国からの嘆願(たんがん)が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされ、翌々年に再開が許可されました。
昭和天皇は9年間にわたって、沖縄県以外の全国1411カ所、総行程にして3万3千キロの御巡幸を行いました。
陛下が直接お声を掛けられた人々は2万人、奉迎(ほうげい)者は数千万人に達したでしょう。
昭和天皇は、各地で数万の群衆にもみくちゃにされましたが、石一つ投げられたことはありませんでした。
敗戦直後で宿泊施設もなく、列車の中や学校の教室にゴザを敷いて泊まられたこともありました。
さらに「戦災の国民のことを考えればなんでもない。10日間くらい風呂に入らなくともかまわぬ」と言われ、御巡幸を続けられました。
イギリスの新聞は次のような驚きを率直に述べています。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望(せいぼう)はほとんど衰えていない。
何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」。
[問5]御巡幸で、国民が見たのはどんな天皇だったでしょう?
→ 「国民と共に(4 )を流す天皇」
【資料5】を読んで、答えを確認しましょう。
【資料5】
広島では原爆孤児84名に会われました。昭和天皇は、原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられました。
周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣いたといいます。
佐賀県の因通寺(いんつうじ)に、戦災孤児の寮(りよう)を訪ねられたときです。
中に、父と母の位牌(いはい)を胸に抱きしめていた女の子がいました。
陛下は悲しそうな顔で「お寂(さび)しい?」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は、亡くなったお父さんお母さんとお浄土(じょうど)に行ったら、きっともう一度会うことができるのです…」。
陛下は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫(な)でながら、
「これからも立派に育っておくれよ」と言われ、数滴の涙が畳の上に落ちました。
「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼びました。
それまで、雲の上のような存在だった天皇陛下が、自ら国民のもとにやってきて、親しく慰め、励しました。
それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇の姿でした。
一人ひとりが背負っている苦しみや悲しみに昭和天皇が涙を流された時、国民の中に「頑張ろう!」という気持ちが芽生えていったのでした。
このように、昭和天皇が国民を励まして歩かれ、敗戦の廃虚にあった国民に大きな力を与えたことで、戦後日本のめざましい復興エネルギーが生まれたといってよいでしょう。
→ 御巡幸で、国民が見た天皇は
「国民と共に(4 涙 )を流す天皇」
●昭和天皇は、この全国御巡幸をたいへん重要な「国事(こくじ)」と考えておられたようです。
<昭和天皇の御製>
戦(たたかい)の わざは(ワ)ひ(イ)うけし 国民(くにたみ)を 思ふ(ウ)こころに いでたちてきぬ
わざは(ワ)ひ(イ)を わすれてわれを 出むかふ(ウ)る 民のこころを うれしとぞ思ふ(ウ)
国おこす もとゐ(イ)とみえて なりはひ(イ)に いそしむ民の 姿たのもし
(*もとゐ=基、土台、基礎 *なりはひ=仕事)
3.国民との紐帯(ちゅうたい=絆のこと)…ご重体・崩御(ほうぎょ)
●昭和63(1988)年9月19日、昭和天皇は大量の血を吐(は)かれて重体になられました。
陛下のお見舞いに皇居へ記帳に訪れた国民の数は約900万人にものぼりました。
昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われたことがありました。
医師たちは、ご自分の命のことかと思ったのですが、本当は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのでした。
実は昭和天皇が唯一(ゆいいつ)、訪問できなかったのが沖縄県だったのです。
昭和天皇は、ご臨終の間際(まぎわ)まで御巡幸最後の地・沖縄に心を寄せ続けられていたのでした。
年が明けた昭和64年(1989)1月7日午前6時33分、昭和天皇は崩御(ほうぎよ)されました(崩御=天皇が亡くなること)。
陛下の崩御に多くの国民が悲しみに包まれました。
そして、2月24日に新宿御苑(ぎょえん)で行われた「大喪(たいそう)の礼」では、折からの氷雨(ひさめ)にもかかわらず、世界163か国、28国際機関からの弔問(ちようもん)使節が参列しました。
わずか半世紀前に世界の多くの国を相手に激しい戦争を戦った国の元首であったにもかかわらず、恩讐(おんしゆう)をこえて昭和天皇に敬意を表したのです。
なかでもインドは国旗を半旗(はんき)にして5日間も、国家として喪(も)に服してくれました。
沿道で、昭和天皇をお見送りした国民の数は60万人に及んだといいます。
我が国には、天皇と国民が深い絆で結ばれてきたという伝統があります。
かつては、このことを「君民一体(くんみんいったい)」といいました。
「激動の日々を経(へ)て、復興を遂(と)げた昭和の時代を顧(かえり)み、国の将来に思いをいたす」日として、昭和天皇のお誕生日4月29日は、「昭和の日」と定められました(平成19年から)。
【課題】
真の国民のリーダーのあり方とは、どういうものかを考えましょう。
感想を宿題として授業を終えた。