伊能忠敬(一七四五~一八一八)
伊能忠敬
ペリーをうならせた測量の実績

「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」
忠敬が残した言葉。「自然天命」とは「自分ではなく人類のための使命」という意味。
伊能忠敬は江戸後期1745年、上総国(千葉県中央部九十九里町)に生まれた。
十八歳の時に代々酒、しょう油を作っていた下総(千葉県北部)佐原の伊能家の養子になった。
かつて村きっての資産家だった伊能家も忠敬が継いだ時は、かなり衰えていたという。
学問の道、特に天文や数学、暦学を極めたいという夢を持っていた忠敬だが、彼がまずしなければならなかったのは家の立て直しだった。つぶれそうだった店をたてなおすため学問の道をあきらめ、自分が先頭に立って、一生懸命に家業に励んだ。
次第に家も繁昌して四十歳になる頃には前よりも豊かになって、名主などの公職について村のために尽くした。
関東に二度も飢饉があった時、二度とも私財をなげうって窮民の救済にもあたった。
五十歳。店を30万両(数百億円)程度まで拡大した忠敬は、家業を長男に譲った。
そして、長年の夢だった学問の道を志し、江戸に出る。
実はこの間、独学で暦学をおさめていたが、天文学者の高橋至時を訪ね、その精密な西洋暦法を聞いて感心。
自分より十九歳も年下の高橋の弟子になって数年間たゆまず勉強した。
その結果、同門中ならぶ者のないほどの実力をつけた。
新式の観測機を購入、製作させ、天体観測に励んでいたが、当時天文学者の間で子午線一度の長さを測ることが問題となっていた。
忠敬は、これを解決するために自費で、奥州(東北)街道と蝦夷地(北海道)の東南海岸を測量し、作製した地図を幕府に献上した。
その精巧さに驚いた幕府は、忠敬に全国の測量を命じた。
忠敬五十六歳の時だ。
自分の力量を買ってくれた幕府の命で、彼はどんな遠方にも出かけていって、全国各地を測量した。
七十二歳にしてついに「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた。
彼の十六年間の努力によって、我が国の正しい位置や形状が初めて明らかになったのである。
翌一八一八年、七十三歳で没した。忠敬が踏破した距離は、四万km以上に達した。
「大日本沿海輿地全図」は約四〇年後に来航した欧米諸国を驚嘆させた。
忠敬が割り出していた子午線の長さは、後に渡来したオランダの天文書と一致していたそうだ。
忠敬が死んで三年後、弟子たちの手で彼の記録をもとに各地の距離、緯度、その他の数値を記した「大日本沿海実測録」が完成した。
忠敬の生き方から私たちは何を学び取れるであろうか。
現代人に欠けていると思われる点は何であろうか。
それは忠敬が人生の中で何を優先課題として選択していったか、ということではないか。
彼は三十年以上もの間、天文学よりも家業を優先してきた。
彼も家業の間には、苦悩しつつ星を仰いだこともあったと思う。
しかし、やりたいことをじっと胸に秘め、家業を守るという義務を地道に果たしてきたのである。
自分の立場を考え、自分がまず、やるべきことをやってから、自分の道へと進んでいった忠敬の生き方。
簡単に快適な道を選んでしまいがちな現代人。
やりたいことはいっぱいある・・・君は何を優先して選んでいくか?
ペリーをうならせた測量の実績

「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」
忠敬が残した言葉。「自然天命」とは「自分ではなく人類のための使命」という意味。
伊能忠敬は江戸後期1745年、上総国(千葉県中央部九十九里町)に生まれた。
十八歳の時に代々酒、しょう油を作っていた下総(千葉県北部)佐原の伊能家の養子になった。
かつて村きっての資産家だった伊能家も忠敬が継いだ時は、かなり衰えていたという。
学問の道、特に天文や数学、暦学を極めたいという夢を持っていた忠敬だが、彼がまずしなければならなかったのは家の立て直しだった。つぶれそうだった店をたてなおすため学問の道をあきらめ、自分が先頭に立って、一生懸命に家業に励んだ。
次第に家も繁昌して四十歳になる頃には前よりも豊かになって、名主などの公職について村のために尽くした。
関東に二度も飢饉があった時、二度とも私財をなげうって窮民の救済にもあたった。
五十歳。店を30万両(数百億円)程度まで拡大した忠敬は、家業を長男に譲った。
そして、長年の夢だった学問の道を志し、江戸に出る。
実はこの間、独学で暦学をおさめていたが、天文学者の高橋至時を訪ね、その精密な西洋暦法を聞いて感心。
自分より十九歳も年下の高橋の弟子になって数年間たゆまず勉強した。
その結果、同門中ならぶ者のないほどの実力をつけた。
新式の観測機を購入、製作させ、天体観測に励んでいたが、当時天文学者の間で子午線一度の長さを測ることが問題となっていた。
忠敬は、これを解決するために自費で、奥州(東北)街道と蝦夷地(北海道)の東南海岸を測量し、作製した地図を幕府に献上した。
その精巧さに驚いた幕府は、忠敬に全国の測量を命じた。
忠敬五十六歳の時だ。
自分の力量を買ってくれた幕府の命で、彼はどんな遠方にも出かけていって、全国各地を測量した。
七十二歳にしてついに「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた。
彼の十六年間の努力によって、我が国の正しい位置や形状が初めて明らかになったのである。
翌一八一八年、七十三歳で没した。忠敬が踏破した距離は、四万km以上に達した。
「大日本沿海輿地全図」は約四〇年後に来航した欧米諸国を驚嘆させた。
忠敬が割り出していた子午線の長さは、後に渡来したオランダの天文書と一致していたそうだ。
忠敬が死んで三年後、弟子たちの手で彼の記録をもとに各地の距離、緯度、その他の数値を記した「大日本沿海実測録」が完成した。
忠敬の生き方から私たちは何を学び取れるであろうか。
現代人に欠けていると思われる点は何であろうか。
それは忠敬が人生の中で何を優先課題として選択していったか、ということではないか。
彼は三十年以上もの間、天文学よりも家業を優先してきた。
彼も家業の間には、苦悩しつつ星を仰いだこともあったと思う。
しかし、やりたいことをじっと胸に秘め、家業を守るという義務を地道に果たしてきたのである。
自分の立場を考え、自分がまず、やるべきことをやってから、自分の道へと進んでいった忠敬の生き方。
簡単に快適な道を選んでしまいがちな現代人。
やりたいことはいっぱいある・・・君は何を優先して選んでいくか?
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