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江戸時代の身分制度 ③

幕府・藩の民衆支配について考える
江戸時代の身分制度③

《続きです》  ※( )内は板書事項。

◎ここで一つの誤解を解きましょう。
だいたいが江戸時代の百姓というのは年貢を搾り取られて、貧しさに苦しんで生活していたという印象が定番です。
本当に百姓は貧しかったのでしょうか。

【年貢は高かったのか?】

『年貢は「村高(むらだか=一村全体の年貢量)」で払うことになっていました。
武士たちは、どのようにして年貢の額を決めていたかというと…』

◆年貢の取り方
 ①検見取法(けみとりほう)

    その年の農作物の取れ具合を見て、年貢率を決める方法
 ②定免法(じょうめんほう) 
   農作物の状況にかかわらず、毎年一定の年貢量を取る方法

『この二つの方法がありました。
江戸時代の初期は「検見取法」でしたが、中期以降は「定免法」を実施するようになりました。
なぜだと思いますか?』

『一般的には、定免法で年貢を取れば、
米が不作だろうが何だろうが、毎年、農民から決まった量の年貢が取れる
からだといわれてきました。
ということは、百姓の生活は定免法が始まったことによってどうなったと思いますか』
「苦しくなった」
『といわれています。本当にそうでしょうか?
具体的に見ると…』

◆現金収入は、どうなったのか? 

①検地は17世紀までに終了している
  → そこに、定免法の実施が加わってくる
  → ということは、18、19世紀は「年貢は一定」だった
 
例)年貢率は「三公七民」とか「四公六民」とされていたので、
年貢率は30~40%
 「幕府領400万石」だったら、年貢米は「150万石前後」だったことになる。
しかし…、

②検地以降の農業の実態は…
「土地生産性が上昇」
「商品作物(→現金収入)が増加」
「農産加工業(酒など)が進展」
「農産物生産が多様化(まゆ、生糸、綿など)」
「出稼ぎや内職に励み、現金収入が増加」


 → 何と! この増えた収入は
( 年貢 )の対象にならなかった!

武士にとって年貢は米!!!なのです。
ということは…

◆実質年貢率は?…信濃国川中島の場合

s-実質年貢率は? …信濃国川中島の場合

『この村はすべて、名目上の形式年貢率は四公六民より多いです。
しかし、本当に負担している実質年貢率は、2割もありません

資料からわかることは次の2つです』

1)農民の年貢は高かったのか? → ( NO )

2)定免法の実施を求めたのは武士か農民か? →( 農民 )


『「百姓は貧しく、食うや食わずの生活をしていた」とする歴史の見方を「貧農史観」といいます。
しかし、これは現実の百姓の生活を説明したものではありませんでした。
最後にだめ押しで、当時の様子を2つ紹介します』

◆どっちが貧しい? 農民と武士

問題)
佐渡の「貧農」佐藤九左衛門(5反の水田を所有)と佐渡奉行所の「中級」役人(当然、武士)の年収は?
  ア)50万円  イ)100万円  ウ)200万円  エ)300万円

正解)
佐藤九左衛門=エ)300万円、奉行所役人=ア)50万円
解説)
貧農の佐藤は、米の取れ高は28石に過ぎないが、
織物の収入が2~3両、駄賃稼ぎ(馬で荷物の運送)で約3両、煙草栽培で3両などなどの現金収入があった。
一方、役人の武士は、米12石の収入だけ!

◆江戸時代の農民って、1年間で何日くらいの休みがあったのか?

『百姓の休日は、多い? 少ない? どっちだと思いますか』

【資料】
下野国の助谷(すけがい)村(=栃木県壬生町)の村役人の日記(享和2年[1802])から

s-下野(しもつけ)国助谷(すけがい)村(栃木県壬生(みぶ)町)の村役人の日記(享和2年[1802])

『この資料を見てどう感じましたか』

◎日記には何のための休みなのかが記されています。
例えば、「彼岸」「初午」「日光参」「祭礼」「盆」「風祭り」など、村の鎮守のお祭りや農業に関わる「年中行事」が中心でした。
お祭りでは、露店や見世物などが出て、現在のレジャー的な面もありました。

『こんな百姓の生活を見た幕府や藩はどうしたと思いますか?』

【資料】天明4年(1784)「高橋悦郎家文書」[意訳]
「村の鎮守のお祭り日以外にも、休日と言って農業をせず、遊んでいるということがあるそうだが、大いに間違っている」

◎この資料は、宇都宮藩が出した農民取締令の一部です。
この中で休日を増やしている百姓たちを「けしからん!」と言ってます。

『なぜでしょうか?
そりゃあ、そうでしょう。
百姓が遊んでばかりいたら安定した「年貢収入」を得られなくなるかもしれないからです』

◎一方の百姓の方では…

『もし、村で決めた休日に働いている農民がいたとします。
この農民に対して、他の村人はどんな態度をとったと思いますか?』

  ア)休まずに働くなんて、えらい人だとほめた。
  イ)関わりのないことなので、気に止めなかった。
  ウ)休日に働くなんて何だ!と怒り、処罰しようとした。
    ↓
◎宇都宮藩の風紀取締令の中に
「休日稼ぎ(村の定休日に働くこと)をした者が、村人から責められた場合、遠慮なく役所へ訴え出るように」とある。

文句を言われたら、藩がちゃんと助けてやるよ…です。
正解は「ウ」。
『こんな法令があるのですから、実際に休日に働いて責められた百姓がいた、ということがわかります』

→ 村で決められた休日は、きっちりと守らなければならかった。

『江戸時代の百姓の生活のイメージはどうなりましたか。ずいぶん変わったのではないですか』

《授業おわり》

■補足です■
農民の休日が増えたわけは?

江戸期の新田開発は中期まででほぼ終わり、耕地面積は江戸初期から中期にかけて大いに伸びて、以後は明治初期までほとんど一定でした。
そこで、百姓たちは限界点に達した田畑で、いかに単位面積当たりの収穫量をあげるか努力しました。
「勤勉革命」です。

村では、季節ごとに細かい農業スケジュールが決められ、忍耐強い努力で1つ1つの仕事をこなしていきました。
一所懸命に集中して大いに農業に励んだ農民たちは、休日にはのんびりと骨休めをしたのです。

役人の日記には何のための休みかが記されています。
「彼岸(ひがん)」「初午(はつうま)」「日光参」「祭礼」「盆」「風祭り」など村の鎮守(ちんじゆ)のお祭りや農業に関わる「年中行事」が中心でした。

やがて休日はだんだん増えていきました。

●17世紀後半~8世紀初の「村の休日」は、
「正月、小正月、盆、五節句、祭り」と「農休み(苗取り、田植え、稲刈りの終了後)などで「年間20~30日」
だったものが、
●18世紀後半から遊び日としてとらえるようになり、「年間30~40日台」に増えていきます。(60日以上、最大80日の地域もあり)

百姓たちは、休日は増やすものの、働く日には厳しい勤労をするという村の体制を作ったのです。

参考文献
『貧農史観を見直す』 佐藤常雄、大石慎三郎(講談社現代新書)
『百姓の江戸時代』 田中圭一(ちくま新書)
『村からみた日本史』 田中圭一(ちくま新書)
『帳箱の中の江戸時代史』田中圭一(刀水書房)

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服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
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