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道徳「柴五郎中佐」勇気ある行動③

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道徳「柴五郎中佐」つづき

『この北京での柴五郎中佐の活躍は、日本に大きな恩恵をもたらすことになります。
それは一体何だったのでしょうか?』

【資料4】柴五郎中佐の成し遂げたもの--------

北京解放後のことです。
柴中佐による民政・治安の維持はすばらしいものでした。

清国兵は追い払ったものの、暴徒や略奪者が横行し、北京は恐ろしい町となっていました。
その中で、いち早く治安を回復したのは、やはり「日本軍占領区域」でした。
日本軍は横行する強盗らを捕えて厳罰に処しました。

暴行や略奪をした外国人兵士を捕えたときは、彼らの軍司令部に突き出しました。
そのため多くの市民が、他国の占領区域から日本区域に移り住み、町は日に日に復興していきました。

また、柴中佐と福島少将は、清国政府の国益を守るためにも奮闘しました。
清国の皇族で実力者の慶親王に
「一刻も早く北京に戻り、諸外国と交渉を始めなければ、清国はその独立が危ない」
と使者を送りました。

案の定、そうしているうちに、北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツが、続々と大軍を送り込んできました。
ドイツ兵たちは北京で稼ぎそこなった分を、上海などの他の都市で略奪しました。

また、混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと画策を始めました。
先の慶親王の誘拐計画です。
幸い、これを察知したイギリス公使マクドナルドが日本軍と協力し、慶親王は柴中佐の率いる騎兵に守られて、北京に帰ることができました。

このあと開かれた清国と連合国の賠償会議はえんえんと続きました。
この時、最大の賠償金を吹っかけたのは、ロシアでした。
一番少なかったのが我が国で、5000万円です。
イギリスが日本の5倍
(出兵数の比で見ると日本の次に低額)、
戦後になってドッとやってきたドイツはイギリスの2倍、
わずかな兵を出しただけのフランスも日本の2倍
(ただし、出兵数の比では日本の100倍)
を要求したのです。
柴中佐の心配は的中してしまいました。

義和団の暴動に乗じて自分の政治権力の強化をはかった西太后は、高い代償を払うことになったのです。
不平等条約や租借地を無くしたいのなら、それが条約で決められたものである以上、我が国のように「条約改正」の努力をするほかありません。
それが国際社会のルールです。

北清事変の後、柴中佐と日本兵は各国政府から勲章を授与されました。
当時、籠城していたイギリス公使はこう書いています。

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最も優秀とみなされている。
日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
我がイギリス兵がこれに続く。
しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」


ロンドンタイムスは社説で

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。
日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」


と誉め称えています。

柴中佐と日本軍の活躍で、我が国は国際社会での地位を大いに高めました。
1902年(明治35)、イギリスは『栄光ある孤立』をやめて、我が国と「日英同盟」を結び、世界を驚かせました。

なぜなら、それまでどこの国とも軍事同盟を結ぶことを拒否してきた誇りある大英帝国が、有色人種の日本と対等な同盟を結んだのですから。

我が国はついに、世界の一等国と肩を並べることになったのです。

その後、日露戦争の勝利、第一次世界大戦への参戦など、日本の国際的地位の向上とともに、柴五郎は昇進を重ね、61歳で陸軍大将となります。

「賊軍」とレッテルを貼られた会津出身者としての汚名をそそいだのです。

退役した柴五郎は、会津出身者の支援事業に力を尽くしました。
毎朝、自分で布団をたたみ、雨の日も風の日も、どんなに寒い冬でも外で体操をしてから、浴室で身を清めました。
それから自宅の裏の小山の道を登って、戦死した自分の部下たちの霊を祀った忠魂碑に手を合わせるのです。

昭和20年(1945年)8月15日、87歳の柴五郎はラジオの前で姿勢を正して、大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦を告げる天皇陛下の玉音放送を聞きました。

よく聞き取れなかったらしく、
「陛下は何と仰せられた」と訊くと、
娘が「日本は敗けたらしゅうございます」と答えました。

柴五郎は2度、深く頷くと、しばし瞑目。
そして家の裏山の忠魂碑の前に額づきました。
その眼からは、涙が流れ落ちていました。

その1か月後、柴五郎は身辺を整理し、自決します。
一命は取りとめたものの、その年の12月13日に亡くなりました。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(資料4 ここまで) 
柴五郎 守城の人
◆-------------------
 発問2
 柴中佐が清国に対して、資料のような
 行動を取ったのはなぜでしょうか?
◆-------------------


「昔、会津で負けてむごい仕打ちを受けたから、敗者の苦しみを知っていたのだ」

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 発問3
 柴五郎の人格と業績を知ってどう思いましたか。
 また、柴五郎にあって、自分にないものは何ですか。
◆-------------------


「欧米が世界を支配していた中で、柴五郎中佐の見事さで、日本の国が世界に高く評価されたことに感動した。
柴中佐の指揮に加え、義和団の籠城戦で日本軍人が見せた規律の正しさや勇敢さ、粘り強さが認められたことに誇りを感じる」

「敗者の気持ちに配慮することが、自分にはなかったと思う。
自分が嫌だったことやつらかったことは、他人には絶対にしないこと。
そして、つらそうにしている人を見たら早く助けてあげようとすること。
なかなかできないことです」


                           (授業終わり)

生徒の骨太の感想に小生が感動しました。
・・・明日は補足をひとつ
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服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
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