日本マラソンの父・金栗四三 三度のオリンピック 努力を続ける (2)
(続きです)
帰国した金栗は4年後のベルリン大会を目標に練習に励み、国内大会で2度も世界新記録を出します。
誰もが今度こそ金メダルと期待しましたが、第一次大戦が勃発し、五輪自体が中止になりました。
次のアントワープ大会(1920年)に出場するも寒さによる足の痙攣で無念の16位。
パリ大会(1924年)では金栗すでに33歳、途中棄権を余儀なくされました。
結局、金栗はストックホルムのリベンジを果たせず、「悲運のアスリート」と呼ばれるようになりました。

現役を引退した金栗は選手の育成と競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習法を取り入れました。
そして「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」と、金栗は箱根駅伝を企画します。
互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めようとしたのです。
現在の強い日本マラソン界につながる試みのほとんどは金栗の発案です。
一方、その誠実で温厚な人柄から後輩たちに「お釈迦様」と呼ばれて慕われました。
◆55年後のゴール
現役時代から換算すると金栗の全走行距離は25万キロ。地球6周以上です。
世界のマラソン界でも金栗の名は知れ渡り、いつしか「日本マラソンの父」と呼ばれるようになっていました。
ストックホルムでの途中棄権から50年余り過ぎた昭和42(1967)年、75歳の金栗にストックホルム五輪55周年記念式典の招待状が届きます。
「あなたはマラソン競技で、まだゴールをされていません。あなたがゴールするのをお待ちしております」
と書いてありました。
実はあの時、日本チームは棄権届けを出していなかったので、金栗は行方不明者のままだったのです。
金栗は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
なんと、そこには一本のゴールテープが用意されていました。
観客の拍手の中、金栗は走ってテープを切りました。
「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これでストックホルム大会は全日程を終了しました」
とアナウンスが流れました。
観客たちは20歳でスタートし、75歳でゴールした金栗をたたえました。
これに応えて「長い道のりでした。この間に孫が五人できました」
との金栗のコメントに観客は大喜びです。

■半世紀ぶりに思い出のスタジアムでゴールテープを切る金栗四三
昭和59(1984)年11月13日、金栗は93歳で天寿を全うしました。
数々の挫折を乗り越えた金栗の不屈の精神を知った生徒は
「私が落ち込んだことなんて本当に小さいことだと思った。頑張っていこう」
と感想を述べました。
今の子供たちは、私たちの子供時代とは比べようもないほど煩雑で慌ただしい社会を生きています。
情報化やグローバル化に伴う落とし穴も多いです。
将来にわたって必ず失敗や挫折はあります。
それを乗り越える気力を育むことも学校の大切な使命です。
強い意志を持って努力を続けることの尊さを教えていきたいですね。

■晩年の金栗四三

■ストックホルム近郊のマラソンコース上にある町「ソレントゥナ」に設置された金栗四三を讃える記念銘板
(おわり)
帰国した金栗は4年後のベルリン大会を目標に練習に励み、国内大会で2度も世界新記録を出します。
誰もが今度こそ金メダルと期待しましたが、第一次大戦が勃発し、五輪自体が中止になりました。
次のアントワープ大会(1920年)に出場するも寒さによる足の痙攣で無念の16位。
パリ大会(1924年)では金栗すでに33歳、途中棄権を余儀なくされました。
結局、金栗はストックホルムのリベンジを果たせず、「悲運のアスリート」と呼ばれるようになりました。

現役を引退した金栗は選手の育成と競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習法を取り入れました。
そして「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」と、金栗は箱根駅伝を企画します。
互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めようとしたのです。
現在の強い日本マラソン界につながる試みのほとんどは金栗の発案です。
一方、その誠実で温厚な人柄から後輩たちに「お釈迦様」と呼ばれて慕われました。
◆55年後のゴール
現役時代から換算すると金栗の全走行距離は25万キロ。地球6周以上です。
世界のマラソン界でも金栗の名は知れ渡り、いつしか「日本マラソンの父」と呼ばれるようになっていました。
ストックホルムでの途中棄権から50年余り過ぎた昭和42(1967)年、75歳の金栗にストックホルム五輪55周年記念式典の招待状が届きます。
「あなたはマラソン競技で、まだゴールをされていません。あなたがゴールするのをお待ちしております」
と書いてありました。
実はあの時、日本チームは棄権届けを出していなかったので、金栗は行方不明者のままだったのです。
金栗は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
なんと、そこには一本のゴールテープが用意されていました。
観客の拍手の中、金栗は走ってテープを切りました。
「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これでストックホルム大会は全日程を終了しました」
とアナウンスが流れました。
観客たちは20歳でスタートし、75歳でゴールした金栗をたたえました。
これに応えて「長い道のりでした。この間に孫が五人できました」
との金栗のコメントに観客は大喜びです。

■半世紀ぶりに思い出のスタジアムでゴールテープを切る金栗四三
昭和59(1984)年11月13日、金栗は93歳で天寿を全うしました。
数々の挫折を乗り越えた金栗の不屈の精神を知った生徒は
「私が落ち込んだことなんて本当に小さいことだと思った。頑張っていこう」
と感想を述べました。
今の子供たちは、私たちの子供時代とは比べようもないほど煩雑で慌ただしい社会を生きています。
情報化やグローバル化に伴う落とし穴も多いです。
将来にわたって必ず失敗や挫折はあります。
それを乗り越える気力を育むことも学校の大切な使命です。
強い意志を持って努力を続けることの尊さを教えていきたいですね。

■晩年の金栗四三

■ストックホルム近郊のマラソンコース上にある町「ソレントゥナ」に設置された金栗四三を讃える記念銘板
(おわり)
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