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日清戦争によって朝鮮の立場はどうなったか

歴史の授業で用いた資料です。
日清戦争の結果、下関条約で朝鮮は清国からの独立を承認されました。
そこで、李氏朝鮮の属国ぶりを知ることで、「独立できてよかったね~」という感慨がひとしおになります。
でも、今現在は…。

日清戦争によって朝鮮の立場はどうなったか。

[李氏朝鮮の清国への朝貢ぶり] 
李氏朝鮮は毎年、宗主国の清に朝貢として次の物を貢納することを義務づけられていました。
17世紀半ば頃の記録を読みましょう。

<清国と朝鮮国間で丁丑(ていちゅう)年(1638)3月30日調印の献納物の規定>
 「毎年、次の如く貢納するものとする。
金百両、銀千両、白米一万包(ぽう)、絹布二千匹、苧布(ちょふ)(麻の一種)三百匹、普通の亜麻(あま)布一万匹、大麻布四百匹、精大麻布百匹、大紙二千張(はり)一千巻、小紙一千巻、鋭刀二千振(ふり)、水牛角一千本、模様花延(かえん)(敷物の一種)五十張、染料二百斤(きん)、胡椒(こしょう)十桝(ます)、虎皮百張、海狸(かいり)(ビーバー)皮四百張、青鼠(せいそ)皮二百張等。
これらの献納は、巳卯(きぼう)年(1639)の秋からとする」。
(シャルル・ダレ『朝鮮事情』より要約)

 「このような朝貢に対して、清国も見返りとして贈り物を朝鮮国王に下賜(かし)したが、なにかと理由をつけて停止したり、逆に罰金を科すことも少なくなかった。
例えば、あいさつ状の文章に礼を失した文字があるとして
『罰金銀一万両、貢納の見返り停止三年』
の処分にあったりした。
こうなると、朝鮮の財政はたいへんに苦しくなってしまう。
また、朝鮮へ冊封などのためにやって来る中国人使節をもてなす時、金銀の食器が出されたが、これは使節が持ち帰るのが慣例となっていた。
このように、朝貢国としての李氏朝鮮は、毎年膨大な出費を必要とした」
(呉善花(オ ソンファ)「韓国人から見た北朝鮮」より要約)

『これはこれはたいへんな属国ぶりです。
属国も楽ではないですね。
でも、いざというときに親分に助けてもらうためには仕方なかったのでしょう』


『だから、日清戦争で日本が勝利して朝鮮が独立できた時、朝鮮国はどんなに喜んだことでしょう
次の写真を見てくださいね』

★迎恩門(げいおんもん)

迎恩門

『シナ皇帝の使者を属国朝鮮として迎えていた門です。
名前が「迎恩」とは、ふるってますね。
ここまで朝鮮王自らお出迎えに行ったのですぞ。
相手は中国の一役人ですよ。
そりゃあ、屈辱だったでしょう。
日清戦争で日本が清から独立させると迎恩門は取り壊されました。
だってもうお出迎えしなくていいんですから。
何百年にもわたる長い属国の屈辱を思い出すのは嫌ですからね』


★独立門

独立門0
ソウルの風光・・(日清戦争終結で清の属国から初の独立)独立門と手前の迎恩門礎石

『1898年、独立門を建てました。
「祝・独立」ですね。
門の手前に柱が写ってます。これは何ですか?
そう、迎恩門の柱なのです。迎恩門のすぐ前に立てたのですね。
うれしかったでしょうね。』

『今でもちゃんと残っていますよ。公園に整備されてます。』

独立門25083022731

『記念切手にもなってます。
鎖がちぎれた絵が描いてありますね。
自由ですね。独立マンセー』

独立門 切手に描かれた「独立門」

『ところで、今の韓国でよく見る光景を写した写真を見てください』

独立門の前で日本の総理大臣安部晋三の描かれた旗を切り裂く反日活動家

『日本の安倍総理が描かれた日の丸を切り裂く韓国の反日活動家たちです』
『独立門の前で行った集会の一コマです。
わざわざ独立門の前でパフォーマンスをしていますよ。
これ、どういうことだか分かりますか?』 
「???」
『日本への非難集会をわざわざ独立門の前でやっているわけです。
この人たちは、この独立門は何を記念して作ったと考えているのでしょうか?』

 …

『そう、第二次大戦後、韓国が日本の統治から独立した記念に作った門だと思い込んでいるのです
だからここでやるんです。
でも、これって事実に照らせば、とても変ですよね。
日本に独立させてもらった記念の門の前で、日本を糾弾する集会を開く。
それがおかしいと全然気がついていない。

報道するマスコミも、この矛盾に何も言わない。
国民の多くも日本からの独立門だと信じているからおかしいと感じない。

あの国の行き過ぎた反日教育の結果でしょうね、きっと。
日本は朝鮮に悪辣なことしかしていないと教育され続けていますから、まさか清国から独立させてくれたのが日本だなんて想像もつかないのかもしれません。
いや、もしかして知っている人もいるのでしょうけど、これがまた言えないんでしょうねぇ。


でも恥ずかしいことだから、韓国のおじさんたち、ちゃんと歴史を勉強しましょう、ということですね。』

困ったもんだなぁ、と複雑な笑いを浮かべる子が多い授業でした。
※激怒している子も何人もいました。
  そこで、歴史は正しく学ぶべきだよと言いました。 

《終わり》


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大日本帝国憲法の制定 ②

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昨日の続きです。
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【歴史】大日本帝国憲法の制定
s-憲法発布のお祝い1

注:文中の( )内は、重要語句であります。

【問1】帝国憲法はどっちの考え方を採用したでしょう?
                  →( 伊藤 ・ 井上 )だと思う
【問2】帝国憲法で、天皇の権力は?
   →[ 強い権力がある・ちょっとある・全くない ]と思う


『実際の憲法の条文を見て確かめてみよう』

【資料】 大日本帝国憲法(抜粋)**********

第一条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇 之(これ)ヲ統治ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵(おか)スベカラズ
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ 統治権ヲ総覧(そうらん)シ 此(こ)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以(もっ)テ 立法権ヲ行フ
第五十五条
①国務大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ 其(そ)ノ責ニ任ズ
②凡(すべ)テ法律 勅令(ちょくれい) 其(そ)ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ 国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要ス
第五十七条 司法権ハ天皇ノ名ニ於(おい)テ 法律ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ


※注
万世一系(ばんせいいっけい)=古代から直系でつながる血筋。 
統治=国をまとめ、治めること。
総覧(そうらん)=すべてを見ること。
協賛(きょうさん)=賛成して協力すること。
輔弼(ほひつ)=補佐すること。助言。
勅令(ちょくれい)=天皇の大権により発せられる命令。
詔勅(しょうちょく)=天皇が意思を表示する文書。お言葉。
副署(ふくしょ)=大臣の署名。
***********************************

【問】上の条文を読んで、わかることをまとめましょう。

[第1条] →国家の(8 統治 )権は天皇にあるとし、

[第5条] →実際の法律や予算は(9 議会 )が決め[=協賛]、天皇は署名(サイン)する

[第55条]→政治は各(10 大臣 )が決め[=補弼]、天皇は署名(サイン)する

[第57条]→判決は法律に則って(11 裁判所 )が下し、天皇は署名(サイン)する

[第4条] →天皇は(12 憲法 )の条文に則って統治権を行使する
             
ということは、天皇は憲法に定められたこと以外は
             (13 できない )


[第3条]→したがって、天皇には政治に関する(14  責任  )を負わせない

  
『ということは、天皇には権力が…
[強い権力がある・ちょっとある・全くない]?』

    答え「全くない」
 ←【問2】の答え

『このように憲法に則って政治をすることを(15 立憲主義 )といいます』

『結局、帝国憲法はどちらの考え方で作られていましたか。…[ 伊藤 ・ 井上 ]?』 

    答え「伊藤」
 ←【問1】の答え

◆1889年2月11日 大日本帝国憲法 発布!

『こうして、天皇を国の中心として戴く政治のしくみが完成しました。
我が国はアジアで初めて近代的な立憲君主国となったのです。
帝国憲法での天皇は、絶対の権力を持ったように思われているが、まったくの間違いです。
天皇は「公平な立場」から政治に対して意見と感想を述べるにとどまり、専制政治はできません。
これが西洋型の立憲君主なのです。』 


s-憲法発布式典


●この頃になると文明開化にうかれ、西洋かぶれして、伝統文化をないがしろにする国民も出てきた。
悲しんだ明治天皇は国民に対して、「教育と道徳」に関するメッセージを発せられた。
それが、
  ⇒ 1890年 教育勅語 

『さあ、憲法が完成したら、いよいよ国会の開設だ!』
●1890年、議員を選ぶ第1回 衆議院議員選挙 が行なわれた。
外国と同様に選挙権には条件があった。有権者の条件は、

  直接国税15円以上納めた25歳以上の男子

『この時、日本国民の有権者は全人口の1.2%でした。
「少ない」と思いますか?
でも、フランスの場合、フランス革命40年後の有権者は
わずか0.6%だったのですよ。
こっらは明治維新のおよそ20年後です。
どう思いますか?』


《終わり》

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大日本帝国憲法の制定

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ずいぶんご無沙汰しておりました。久しぶりのアップでございます。
本日は、「大日本帝国憲法の制定」の学習です。
アジア初の議会政治を可能とした近代憲法です。
では、授業の始まり。
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【歴史】大日本帝国憲法の制定

注:文中の( )内は、重要語句であります。


『憲法作りの責任者は誰でしたか?』 = (1 伊藤博文 )

●伊藤の取り組みを見てみよう。

①伊藤渡欧(1882~83年)、(2  プロイセン  )憲法、ベルギー憲法など多くを学ぶ

②帰国後、(3 内閣  )制度を整える
      ~1885年、伊藤みずから初代内閣総理大臣に就任する

③次の三人が、憲法作成の中心になった。伊藤博文、井上毅、金子堅太郎である。
  三人はそれぞれが独自に憲法研究を重ねた。

『三人は憲法を作成するにあたって、何を一番大切にしなければならないと考えたでしょう?』
  
 ヒント:(  )のなかに「天皇、歴史、伝統」のどれかが入る。

◎伊藤博文
s-伊藤井上金子0001
   各国の憲法調査のためにヨーロッパに渡り、向こうの学者
   たちの講義を聞いて、大きな「ひらめき」が…

「そうか、憲法はまず、日本の(4 歴史 や 伝統 )に基づいて作ればいいのか!」

◎井上毅(こわし)
s-伊藤井上金子0002
   古事記や日本書紀など、日本の古典を徹底的に研究した結果…

「我が国は(5 天皇 )が国を統治する『君徳』によって成り立っている!」

◎金子堅太郎
s-伊藤井上金子0003
   世界中の様々な文献を調査・研究した結果…

「国家の法令を研究するには、その国の(6 歴史  )に照らし、その習慣に問い、その起こりから現在までを調べることである!」


④憲法草案の作成中、伊藤と井上で「天皇と政治の関わり方」で考え方の違いが出てきた

●伊藤博文の考え
「私の考えは、個人としての天皇は政治を運営する上で主体として関わるのではなく、精神的な拠り所であるべきです。政治の中心は あくまで内閣にあり、天皇は政治的な決断をすべきではないと考えます」

●井上毅の考え
「私の考えは、天皇は実質的に政治を運営する上での責任者であり、内閣と一体となって政治を行なうべきです。内閣は政治の中心ではなく、天皇を補佐する役割を担うのみだと考えます」


【問1】帝国憲法はどっちの考え方を採用したでしょう?
   →( 伊藤 ・ 井上 )だと思う

【問2】帝国憲法で、天皇の権力は?
   →[ 強い権力がある・ちょっとある・全くない ]と思う


『次の条文に鍵があります』
 ※ 第3条、第4条、第5条、第55条、第57条


《つづく》
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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
横浜・神奈川の志ある先生の参加をお待ちしています!
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個人的な連絡はコメントからどうぞ。

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