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道徳「日本を愛したジャズドラマー」

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4-(3)「公平・公正~差別や偏見のない社会」

しばらく記事の更新ができませんでした。年度当初は忙しいです。
今日は道徳で、「人種平等」をテーマにしたものです。
ミニ道徳です。

《日本を愛したジャズドラマー アート・ブレーキー 》
                           (アメリカ・1919~1990)

【発問1】 この人は誰ですか。

Art_Blakey.png

〔答え〕 アート・ブレーキーさん

【発問2】 何をする人ですか。 
〔答え〕  ジャズドラマー

【発問3】 あなたが他人に接するとき…、
①心がけていることは何ですか。
②それはなぜですか。何のためですか。
率直にどうぞ。

『資料を読みましょう』

【資料】「ナイアガラ・ロール」

アート・ブレーキーさんは、“モダン・ジャズのハート・ビート(鼓動)”と呼ばれたジャズ・ドラムの大御所中の大御所のドラマーです。
「ナイアガラ・ロール」との異名を取ったドラムの連打を武器に、ジャズ界を席巻しました。

彼は多くのドラマーに影響を与えると同時に、彼がリーダーとなった「ジャズ・メッセンジャーズ」は、1955年の結成からブレイキーが世を去る90年まで、常にジャズのトップグループとして君臨ました。
そんな彼は、昭和36年(1961)の初来日以降、亡くなる直前まで数え切れないほど日本に来ており、夏の「フェスティバルの顔」でした。
彼のアルバムや楽曲には、「雨月」「京都」「銀座」といった日本語をタイトルにしたものがいくつかあります。
この背景には、昭和36年の初来日の時に「ある出来事」があったからです。

この年の元旦、夜の10時。
アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズのメンバーを乗せた飛行機が羽田空港に降り立ちました。
機内から外へ出たブレーキーさんが見たものは、花束を持ち、こちらに向かって熱狂的に手を振っている無数の若者たちの姿でした。
ブレーキーさんたちは、
「有名人でも乗っているのか?」と
思っていました。

しかし、この若者たちは自分らの来日を歓迎するファンだと知った時、彼の目から大粒の涙があふれだしました。
なぜでしょうか?


当時、ブレーキーさんはアメリカでもジャズ界のスーパースターでした。
しかし、彼は黒人です。
人種差別が根強く残っていたアメリカでは、当然のように差別されていたのです。
だから、日本の若者たちの熱烈な歓迎が信じられなかったのです。
タラップを降りると、ファンからの花束に埋もれ、スピーチを求められましたが、彼らは涙が止らなくてとてもそれどころではありませんでした。

さらに、ブレーキーさんを驚かせることがありした。
一人の若者が彼に近づいてこう言ったのです。
「ミスターブレーキー、お願いがあります。僕と一緒に記念写真を撮ってください」
彼は思わずこう言いました。
「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」
この時、ブレーキーさんは知ったのでした。
「この国の人たちは黒人を差別しない」と。


同じ人間を「肌が黒い」というだけで蔑(さげす)むような考えを持つ者など、この国には一人もいない。
この国の人たちは、本当に自分たちの演奏を聴きたがっている。
この国の人たちは、自分たちの演奏が大好きで、心から自分たちをリスペクト(尊敬)してくれる。
国籍も人種もまったく違う日本人がただただ自分たちの音楽を賞賛してくれている…。


出迎えた日本人にとって、アート・ブレーキーはジャズのスーパースターです。
純粋に彼を尊敬し、日本に来てくれたことに感謝し、歓迎しただけのことでした。
日本人にしてみたら、ごく当たり前ことです。
この当たり前のことが、黒人のブレーキーさんにとって涙が出るほど嬉しいことだったです。

そして、帰国する時に彼はこう述べました。

「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。
それは演奏を聴く態度はもちろん、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人として歓迎してくれたことだ。
ヒューマンビーイングとして!」


八百万(やおよろず)の神様のいる国、縄文の昔から大陸や海からやって来た人・物・文化を取り入れて共生してきた国だからこそ、我が国では肌の色や人種で差別するなどという意識は恥ずべきことでした。
ごく普通の当り前の事を当たり前のようにするのが日本なのです。

こうして、大の親日家になったブレイキーは、その後、日本女性を妻に迎えました。
息子に日本名をつけ、毎年のように来日して、本物のジャズを日本のファンに披露し続けたのです。

《資料おわり》

【発問4】 
資料を読んで、感じたことや感心したことはなんですか。
また、今の自分の考えに照らしてどうですか。


『どんな人に対しても公平に接するということは、素晴らしいことです。
日本は、そういうことが当たり前の社会であったし、それがカッコいい生き方でもあります。
クラスや学年、先輩の中には、弱い立場の人に対して、乱暴な態度や口の利き方をしている人がいるでしょう。
それはカッコわるい生き方だし、自分の価値を下げています。

振り返って、自分は人によって態度を変えていないでしょうか…。
大切なことです。よくよく考えてください』


などという話をします。

アート・ブレーキー

《授業おわり》

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日本国憲法の前文は「コピペ」です


本日発刊のメルマガ「授業づくりJAPANの『日本人を育てる授業』NO.25」の情報コーナーに、産経新聞2015.3.26付けのコラム
【阿比留瑠比の極言御免】「憲法はコピペ」
が紹介されています。
(メルマガ登録は右下のリンクからどうぞ!)

これはたいへん重要な指摘です。
知れば知るほど、こんなごちゃごちゃな文書を一国の「憲法」として70年にもわたって押し頂いてきたことの恥辱を実感します。

GHQからは、前文については字句も変更せず、そのまま日本語にせよと命令されていたそうです。
どおりでおかしな日本語なわけです。
前文は、米国の政治的文書や国際関係の文書の「つぎはぎ」によって作成されたました。
したがって、前文の中の3か所に出てくる「日本国民」という単語がなければ、どこの国の憲法か分からない文書になっています。
日本の歴史や伝統・文化を無視して作ったのですから当たり前ですけど。

これまで授業で紹介してきましたが、よい機会ですので、整理したものをここにアップします。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

■アメリカ合衆国憲法 前文
我らと我らの子孫に自由の恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のため、ここにこの憲法を制定し確立する。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

■リンカーン大統領ゲティスバーグ演説
人民の、人民による、人民のための政治

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。

■マッカーサー・ノート(マッカーサー三原則)のⅡ
日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

■テヘラン宣言
われらは、その国民が、われら三国国民と同じく、専制と隷従、圧迫と偏狭を排除しようと努めている、大小すべての国家の協力と積極的参加を得ようと努める。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

■大西洋憲章 第六
すべての国のすべての人類が恐怖及び欠乏から解放されてその生命を全うすることを保障するような平和が確立されることを希望する。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■日本国憲法 前文
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

■アメリカ独立宣言
われらは、相互にわれらの生命、財産及びわれらの神聖な名誉にかけ、…この宣言を擁護することを誓う

《以上》

よくぞここまで! と呆れます。
まぁ、1週間で素人が書いたのですからこんなものなのでしょう。
皆様も、よくよく読み比べて、吟味してください。

最後に、占領憲法成立時に、交渉の中心にいた白洲次郎の手記を紹介して終わりましょう。

「かくのごとくして この敗戦最露出の憲法案は生まる。
『今に見ていろ』という気持ち抑え切れず、ひそかに涙す」


おわり

参考 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

産経2015.3.26
【阿比留瑠比の極言御免】「憲法はコピペ」

先日、比較憲法学の権威である西修・駒沢大名誉教授の憲法に関する講演を聴く機会があった。なるほどそうかと納得したり、わが意を得たりと膝を打ったりで有意義な時間を過ごせたが、中でも鋭い指摘だなと感心したのは「憲法前文は『コピペ』なんです」という言葉だった。

「コピペ」とは「コピー&ペースト」の略であり、複写と貼り付けによる丸写しのことだ。最近、学者の論文や学生のリポートが、インターネット上の情報や表現をそのまま流用した安易なコピペだらけだと社会問題化している。

そのはしりが憲法前文だというわけだ。西氏によると、憲法前文は
(1)米合衆国憲法(1787年)
(2)リンカーンのゲティスバーグ演説(1863年)
(3)マッカーサー・ノート(1946年2月)
(4)米英ソ首脳によるテヘラン宣言(1943年)
(5)米英首脳による大西洋憲章(1941年)
(6)米独立宣言(1776年)
のそれぞれを切り貼りしたものだという。

「単位」もらえない!?

確かに、憲法前文の「われらとわれらの子孫のために(中略)自由のもたらす恵沢を確保」「この憲法を確定する」という言葉は米憲法と共通している。
憲法前文の「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という部分は、テヘラン宣言の「専制と隷従、圧迫と偏狭を排除しようと努めている大小すべての国家」とほとんど一緒である。
また、憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ」という部分は、大西洋憲章の「すべての国のすべての人類が恐怖および欠乏から解放され」の言い回しを少し変えただけだろう。

これが学生リポートなら、内容以前に剽窃(ひょうせつ)行為は論外だとして単位はもらえないはずだ。西氏は講演で、「GHQ(連合国軍総司令部)がたった1週間で作ったのだから無理はない部分もある」と皮肉ったが、日本がこんな質の悪い盗作憲法をいまだにいただいていることが恥ずかしい。

「(自民党草案は)『家族は助け合わなければならない』など、党の国家観や価値観が強く反映されている。それが『憲法』としてふさわしいのかどうか考えてみる必要がある」
これを読んだ際、憲法に新たに「家族」に関する考え方を盛り込むのは特殊なことなのかと危うく錯覚しかけたが、もちろんそんなことはない。
西氏が1990年2月のナミビアから2014年1月のチュニジアまで、新しく憲法を制定した102カ国を調べたところ、そのうちカンボジア、タイ、ブータンなど87カ国(85.2%)が「家族の保護」を盛り込んでいたのである。
世界の趨勢(すうせい)がそうだから日本もまねろという気はない。ただ少なくとも、家族という人間社会の基本単位の明記が憲法にふさわしくないとは決していえまい。

現実の政治課題となった憲法改正をめぐって、今後は国会でもメディアでも憲法論議はますます活発化していくことだろう。どこかで聞いたようなコピペのような俗論に惑わされず、戦わされる議論の真贋(しんがん)をしっかりと見極めていきたい。(政治部編集委員)
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江戸時代の身分制度 ③

幕府・藩の民衆支配について考える
江戸時代の身分制度③

《続きです》  ※( )内は板書事項。

◎ここで一つの誤解を解きましょう。
だいたいが江戸時代の百姓というのは年貢を搾り取られて、貧しさに苦しんで生活していたという印象が定番です。
本当に百姓は貧しかったのでしょうか。

【年貢は高かったのか?】

『年貢は「村高(むらだか=一村全体の年貢量)」で払うことになっていました。
武士たちは、どのようにして年貢の額を決めていたかというと…』

◆年貢の取り方
 ①検見取法(けみとりほう)

    その年の農作物の取れ具合を見て、年貢率を決める方法
 ②定免法(じょうめんほう) 
   農作物の状況にかかわらず、毎年一定の年貢量を取る方法

『この二つの方法がありました。
江戸時代の初期は「検見取法」でしたが、中期以降は「定免法」を実施するようになりました。
なぜだと思いますか?』

『一般的には、定免法で年貢を取れば、
米が不作だろうが何だろうが、毎年、農民から決まった量の年貢が取れる
からだといわれてきました。
ということは、百姓の生活は定免法が始まったことによってどうなったと思いますか』
「苦しくなった」
『といわれています。本当にそうでしょうか?
具体的に見ると…』

◆現金収入は、どうなったのか? 

①検地は17世紀までに終了している
  → そこに、定免法の実施が加わってくる
  → ということは、18、19世紀は「年貢は一定」だった
 
例)年貢率は「三公七民」とか「四公六民」とされていたので、
年貢率は30~40%
 「幕府領400万石」だったら、年貢米は「150万石前後」だったことになる。
しかし…、

②検地以降の農業の実態は…
「土地生産性が上昇」
「商品作物(→現金収入)が増加」
「農産加工業(酒など)が進展」
「農産物生産が多様化(まゆ、生糸、綿など)」
「出稼ぎや内職に励み、現金収入が増加」


 → 何と! この増えた収入は
( 年貢 )の対象にならなかった!

武士にとって年貢は米!!!なのです。
ということは…

◆実質年貢率は?…信濃国川中島の場合

s-実質年貢率は? …信濃国川中島の場合

『この村はすべて、名目上の形式年貢率は四公六民より多いです。
しかし、本当に負担している実質年貢率は、2割もありません

資料からわかることは次の2つです』

1)農民の年貢は高かったのか? → ( NO )

2)定免法の実施を求めたのは武士か農民か? →( 農民 )


『「百姓は貧しく、食うや食わずの生活をしていた」とする歴史の見方を「貧農史観」といいます。
しかし、これは現実の百姓の生活を説明したものではありませんでした。
最後にだめ押しで、当時の様子を2つ紹介します』

◆どっちが貧しい? 農民と武士

問題)
佐渡の「貧農」佐藤九左衛門(5反の水田を所有)と佐渡奉行所の「中級」役人(当然、武士)の年収は?
  ア)50万円  イ)100万円  ウ)200万円  エ)300万円

正解)
佐藤九左衛門=エ)300万円、奉行所役人=ア)50万円
解説)
貧農の佐藤は、米の取れ高は28石に過ぎないが、
織物の収入が2~3両、駄賃稼ぎ(馬で荷物の運送)で約3両、煙草栽培で3両などなどの現金収入があった。
一方、役人の武士は、米12石の収入だけ!

◆江戸時代の農民って、1年間で何日くらいの休みがあったのか?

『百姓の休日は、多い? 少ない? どっちだと思いますか』

【資料】
下野国の助谷(すけがい)村(=栃木県壬生町)の村役人の日記(享和2年[1802])から

s-下野(しもつけ)国助谷(すけがい)村(栃木県壬生(みぶ)町)の村役人の日記(享和2年[1802])

『この資料を見てどう感じましたか』

◎日記には何のための休みなのかが記されています。
例えば、「彼岸」「初午」「日光参」「祭礼」「盆」「風祭り」など、村の鎮守のお祭りや農業に関わる「年中行事」が中心でした。
お祭りでは、露店や見世物などが出て、現在のレジャー的な面もありました。

『こんな百姓の生活を見た幕府や藩はどうしたと思いますか?』

【資料】天明4年(1784)「高橋悦郎家文書」[意訳]
「村の鎮守のお祭り日以外にも、休日と言って農業をせず、遊んでいるということがあるそうだが、大いに間違っている」

◎この資料は、宇都宮藩が出した農民取締令の一部です。
この中で休日を増やしている百姓たちを「けしからん!」と言ってます。

『なぜでしょうか?
そりゃあ、そうでしょう。
百姓が遊んでばかりいたら安定した「年貢収入」を得られなくなるかもしれないからです』

◎一方の百姓の方では…

『もし、村で決めた休日に働いている農民がいたとします。
この農民に対して、他の村人はどんな態度をとったと思いますか?』

  ア)休まずに働くなんて、えらい人だとほめた。
  イ)関わりのないことなので、気に止めなかった。
  ウ)休日に働くなんて何だ!と怒り、処罰しようとした。
    ↓
◎宇都宮藩の風紀取締令の中に
「休日稼ぎ(村の定休日に働くこと)をした者が、村人から責められた場合、遠慮なく役所へ訴え出るように」とある。

文句を言われたら、藩がちゃんと助けてやるよ…です。
正解は「ウ」。
『こんな法令があるのですから、実際に休日に働いて責められた百姓がいた、ということがわかります』

→ 村で決められた休日は、きっちりと守らなければならかった。

『江戸時代の百姓の生活のイメージはどうなりましたか。ずいぶん変わったのではないですか』

《授業おわり》

■補足です■
農民の休日が増えたわけは?

江戸期の新田開発は中期まででほぼ終わり、耕地面積は江戸初期から中期にかけて大いに伸びて、以後は明治初期までほとんど一定でした。
そこで、百姓たちは限界点に達した田畑で、いかに単位面積当たりの収穫量をあげるか努力しました。
「勤勉革命」です。

村では、季節ごとに細かい農業スケジュールが決められ、忍耐強い努力で1つ1つの仕事をこなしていきました。
一所懸命に集中して大いに農業に励んだ農民たちは、休日にはのんびりと骨休めをしたのです。

役人の日記には何のための休みかが記されています。
「彼岸(ひがん)」「初午(はつうま)」「日光参」「祭礼」「盆」「風祭り」など村の鎮守(ちんじゆ)のお祭りや農業に関わる「年中行事」が中心でした。

やがて休日はだんだん増えていきました。

●17世紀後半~8世紀初の「村の休日」は、
「正月、小正月、盆、五節句、祭り」と「農休み(苗取り、田植え、稲刈りの終了後)などで「年間20~30日」
だったものが、
●18世紀後半から遊び日としてとらえるようになり、「年間30~40日台」に増えていきます。(60日以上、最大80日の地域もあり)

百姓たちは、休日は増やすものの、働く日には厳しい勤労をするという村の体制を作ったのです。

参考文献
『貧農史観を見直す』 佐藤常雄、大石慎三郎(講談社現代新書)
『百姓の江戸時代』 田中圭一(ちくま新書)
『村からみた日本史』 田中圭一(ちくま新書)
『帳箱の中の江戸時代史』田中圭一(刀水書房)

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カルタゴの平和

過ぐる3月28日、「日本教師塾」の勉強会で飯田橋に行ってきました。
メインは高橋史朗教授の「W・G・I・P(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」。
久々に頭んなかがフル回転しました。
高橋先生に先立って、千葉の渡辺尚久先生の模擬授業「第二のカルタゴ」も勉強になりました。
ふと思い当たったのが、20年くらい前に作った読み物資料です。
この話はまだまだ使えるなぁと思った次第です。たいへん今日的な問題なのです。
渡辺先生の素晴らしい授業を知りたい人はぜひ「日本教師塾」に参加しましょう。
惜しみなく教えてくださいます。

以下、読み物資料~歴史でも公民でも使えます。

 <カルタゴとローマ帝国>

◆ローマ帝国
●ヘレニズム文化華やかなりしB.C3世紀、都市国家ローマがイタリア半島を統一。

●B.C2世紀頃から西欧、アフリカ、西アジアに領土拡大。
  ・B.C264年ポエニ戦争で勝利。地中海の覇権を握る。
  ・B.C60年第1回三頭政治(ポンペイウス、クラッスス、シーザー)
          →シーザーの独裁
          →ブルータスに暗殺される 「ブルータス、お前もか!」
  ・B.C49年第2回三頭政治
(オクタビアヌス<シーザーの養子>、アントニウス、レピドゥス)
 ・「アクチウムの戦い」
        オクタビアヌスがアントニウスと、その妃エジプト女王クレオパトラに勝利
          → エジプトを征服!
●地中海沿岸に強大なローマ帝国を建設(B.C27年、初代皇帝オクタビアヌス)

◆ポエニ戦争…カルタゴの滅亡

カルタゴ(BC814~BC146年)はアフリカ北部(現在のチュニジア)に位置し、地中海貿易で栄えた経済大国でした。
ローマと第一次~第三次ポエニ戦争まで三度戦い、そして滅亡しました。
なぜ、カルタゴは滅んだのでしょうか。

カルタゴが滅亡した原因:第二次ポエニ戦争で敗れた後、ローマと結んだ条約
  条約の内容
  ・カルタゴの平和と安全はローマが保障する
  ・自衛軍は持ってもいいが、ローマの許可なしで戦争をしてはならない

     =「交戦権」の否定である。

このことの持つ意味がいかに重大なものかを知っていたのは、第二次ポエニ戦争で活躍した闘将ハンニバルでした。
第二次ポエニ戦争後、ローマへの賠償金支払いを嘆く元老院(政治をするところ)で、彼は一人、笑いを浮かべていました。
その態度を激しく非難された彼はこう言いました。

「心が目に見えるなら、私の笑いが不幸のゆえに逆上したせいであることがわかるであろう。
武器が没収され、戦争が禁じられた時にこそ嘆くべきだったのだ。
なぜなら、この痛手は取り返しのつかないものだからである。
ローマが平和を保障してくれるなどと信じないほうがいい。
国は身体と同じく外に対して強く見えても内から衰弱していく。
しかし、我々はそれに気づかない。
自分の金を失うのは苦痛に違いないが、国の損失とはそんなものではない。
今や、我が国は武装した諸部族のただ中に丸裸で放り出されているではないか。
それを誰一人嘆こうとはしないではないか。
金を失うことなど小さな不幸に過ぎないことを諸君はやがて思い知るだろう」


カルタゴ政府はハンニバルの言葉を理解せず、彼を追放しました。
そして、ローマに従順にしたがい、経済活動のみに専念しました
その結果、カルタゴは…。
わずか10年後には賠償金を一括して払えるほどの経済大国に復活します。
武力を放棄したまま自国の安全をローマに頼み、その費用をすべて経済活動にまわしたのでカルタゴは短期間で経済大国に成長したのです。

まさにこの世の春でした。(カルタゴの平和

ところが…、半世紀後、かつての植民地ヌミディアがカルタゴの領土を侵略してきます。
あわてたカルタゴはローマに戦争の許可を願い出ますが、ローマはこれを拒否しました。
しかし、いたたまれずカルタゴはついにヌミディアと開戦してしまいます。
ローマはこの時を待っていたのでした。
すかさず、条約違反としてカルタゴに宣戦布告! 
驚いたカルタゴは武器を捨て、ひたすらローマに謝罪します。
しかし、ローマが許すはずはありません。
とうとうカルタゴ国民もローマとの戦争を決意しますが、時すでに遅し。
カルタゴは跡形もなく焼き滅ぼされました。
第二次ポエニ戦争敗北後、55年目のことでした。

→ このカルタゴ・・・今のどこかの国と似ていませんか?

《資料おわり》

さて、今や…

「WIN―ギャラップ・インターナショナル」(本部スイス・チューリヒ)は2015年3月18日、64カ国・地域で実施した世論調査の結果を発表
「自国のために戦う意思」があるかどうか
  ↓
日本が11%で最低。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/dragoner/20150324-00044155/

これを見るに、すでに日本は、「危機に立つ国家」(1983年、レーガン米国大統領の「教育の卓越に関する国家委員会」が発表した報告書タイトル)になっているのではありませんか。

このまま座してカルタゴと同じ運命をたどってもいいのですか。
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江戸時代の身分制度 ②

  ┏・━・━・━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━・━・━・┓

    授業づくりJAPANが公開する授業案はご自由に追試してください。
    ただし、授業実践論文やレポートなどで公開される場合は、一言、
    「この授業は、授業づくりJAPANの○○氏の実践である」
    とお断りください。

  ┗・━・━・━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━・━・━・┛

幕府・藩の民衆支配について考える
江戸時代の身分制度②

《続きです》  ※( )内は板書事項。

『農民の生活の実態は、どのようなものだったのかを見ていきましょう』

◎有名な『慶安の御触書』を紹介します。
 要するに典型的な「貧農史観」を形作ってきた資料です。

【資料1】1649年『慶安の御触書』のおもな内容

一、幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
一、酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ。
一、農民は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと。
一、農民は、麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。
一、早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。
一、男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。
慶安二年二月廿(にじゅう)六日


『農民は朝から晩までよく働け。無駄遣いをしないで、米を食わず、衣食住も最低限におさえよ…ということのようです。
感想をどうぞ。』

◎生徒は、百姓の生活は「たいへんだ」「かわいそう」などの感想を述べ、ネガティブなイメージを持ちました。
ま、当たり前ですけど。
その他に、次のような法令もあったことを教えます。

・1643年 田畑永代売買禁止令:勝手に田畑を売ってはいけない。
・1673年 分地制限令:分家を制限する。

◎ますますネガティブなイメージになってしまいました。
さて、とは言うものの…

【問題2】~「農民は貧しかった」のでしょうか?

◎江戸時代の百姓の生活実態を知るために、以下の資料を解説しながら、( )内に適語を入れていきます。

s-「農民は貧しかった」のでしょうか?

収入はどんどん増えているのに年貢率が一定だったという事実を知ると、生徒たちも
「おや???」
と思い始めます。

『これまで、慶安の御触書は農民支配の根本原則となった法令であると考えられてきました。
百姓の生活の細かいところまでも規制した、身分差別のひどい法律だと強調されてきました。
でも、本当にそうなのでしょうか。
百姓たちは、お茶も酒も飲まず、米も食わず、最低限の衣食住を続けていたんでしょうか。
じゃあ、どんどん増えていったお金はどうしたんでしょうか。

ずーーーっと貯金でもしていたんでしょうか』
「???」
『そんなバカなことはありえませんね。きっと何かを買うために使ったと思いますよ。

では、人口の8割を占める百姓が生産した米は、どうなったんでしょう。
ものすごい量のお米でしょうね。それを人口のたった7%しかいない武士たちが全部食べたの?』
「ありえない」
『米は生ものだから食べなければ腐ってしまいます。じゃあ、誰が食べたの?』
「百姓?」
『でも、百姓は米を食べちゃいけないんじゃないの?』

『謎解きをしましょう。
例えば、学校に「廊下を走るな!」という張り紙があったとします。
それは、廊下を走る人が「いる」から? 「いない」から?
 
どっちかな』
「いるから」
『「授業中は私語を慎もう」という目標があったら、私語をする人が?』
「いるから」

『実は、慶安の御触書は百姓の生活実態の裏返しなのです。
百姓は米を当然のように食べていた。品の良い着物も着ていた。
お茶も酒も飲んでいた。だって自分たちがこれを作っているんですから当たり前でしょう。
でも、武士の立場から見たらどうでしょうね。
百姓が贅沢をしすぎて破産してしまったら困ってしまいますよ。なぜでしょうか?』
「年貢を取れなくなるから」
『だから、「もう贅沢しないでくれよー」って言ってるわけです』

『もう一つ補足します。慶安の御触書には「罰則」がありません
それは何を意味するかというと、せいぜい「努力目標」的なものでしかなかったということでしょう』

◎まとめると、
 『慶安の御触書』からわかる農村の実態とは… 
  百姓は、「節約して勤勉に働いた」 → 生活の余裕あり

《続きます》
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江戸時代の身分制度 ①

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    授業づくりJAPANが公開する授業案はご自由に追試してください。
    ただし、授業実践論文やレポートなどで公開される場合は、一言、
    「この授業は、授業づくりJAPANの○○氏の実践である」
    とお断りください。

  ┗・━・━・━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━・━・━・┛

幕府・藩の民衆支配について考える
江戸時代の身分制度①


「固定化された厳しい身分制度」
というのが今までの江戸時代の理解でしたが、近年ようやく誤解が解けてきたように思います。
しかしながら、いまだ資料集などでは「厳しい身分制度」という史観がまかり通っている現状を鑑みて、具体的な事例を紹介しながら真実の民衆の姿を提示する授業を実施します。

《授業はじめ》
※ ( )内は板書します。

◎まずは、お決まりの身分構成から教えます。

(1 武士 ・ 百姓 ・ 町人 ・ エタ ・ 非人 ・ 公家・僧・神官など

全人口に占める割合は左から、人口の約7% ・85% ・ 5% ・ 1.5% ・ 1.5%

『江戸時代は、身分によって
・衣食住(着物、傘、下駄など身に着けるもの)や職業に身分差を設ける
・居所を限定する(勝手に引っ越してはいけない)
など、厳しく規制されていたといわれています』

◎支配者であった武士の特権といわれているものを教えます。

 (2 名字帯刀 ・ 斬り捨て御免 )

『以下の問題に答えなさい。』
【問題】
A.「名字」は「武士」だけが持っていた? → (Yes,No)
B.「帯刀」は武士だけである? → (Yes,No)
C.「農工商」の身分はずっとそのまま固定されていた? → (Yes,No)
D.武士による「斬り捨て御免」はよく行なわれた? → (Yes,No)
E.武士の中での身分差はきびしかった? → (Yes,No)


〔生徒の傾向〕
 A → Yes多数
 B → Yes多数
 C → No多数
 D → Yes,Noほぼ同数
 E → Yes多数

◎資料を配付し、正解を読み取らせます。

【資料】@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

A.「名字」は「武士」だけが持っていた?

「名字」は「苗字」とも書きます。「名字」は日本人全員が持っていました。
公の場で名のれるのかどうかということが問題だったのです。
農民や町人の中には、ずっと名のる機会がなかったために忘れてしまい、明治時代に新しい名字をつけた者もわずかにいました。
しかし、「名字」を公の場で名のれたのは「武士」だけというわけでもありません。
名主などの豪農、町年寄などの大商人、医師、神主、宿場の本陣、皆のために献金をした者、悪人や犯罪者などの徒党を訴えた者、親孝行をした者などは名のりを許されていました。
朱印船貿易の角倉了以(すみくらりょうい)や茶屋四郎次郎(しろじろう)。
有田焼きの酒井田柿右衛門(かきえもん)。
俳句の小林一茶。
勤勉家で農政家の二宮金治郎(尊徳)。
医者の杉田玄白。
日本初の実測地図を作った伊能忠敬(いのうただたか)などなど。
他に有名人を調べてみましょう。

B.「帯刀」は武士だけである?

秀吉の刀狩り以降、全ての農民が非武装であったかのように思われていますが、上層の農民は当然のように刀を持っています。
猟をするために、鉄砲を持つ農民も多くいました。
また、旅行の時、護身用に「道中差し」という刀を差しました。
遊び人とか渡世人という人、すなわちヤクザ者ですが、刀を差してえばっていました。
有名な新選組の近藤勇は百姓出身ですが、剣道の達人で道場を開いていました。
新撰組

C.「農工商」の身分はずっとそのまま固定されていた?

百姓から商人に、また、町人から百姓に多くの人が変わっています。
多くの土地が自由に売買され、武士以外の身分の者が金を貯めて「御家人株(かぶ)」を買って武士身分になったりしました(特に江戸時代後半から増えてきます)。
幕末の勝海舟(幕府の役人)、坂本龍馬などもそうした人たちです。
ちなみに、歴代将軍のうち、正室(せいしつ)から生まれたのは家康・家光・慶喜の三人だけで、その他の将軍の母は農民や町人、浪人の娘でした。
江戸時代の身分は、けっこう流動的だったのです。

D.武士による「斬り捨て御免」はよく行なわれた?

もし、百姓町人を「無礼打ち」にしたら奉行所に届け出なければなりません。
そして、本当に向こうに非があったのかどうか厳しい取り調べを受けます。
調べの結果、少しでも武士の方に落ち度があったら、お家は改易(かいえき)か断絶。ヘタをすれば本人が切腹でした。
幕府や藩に年貢を納める農民は宝なのです。
また、各藩は地方分権で独立性が高いので、ある地方の侍が参勤交代の途中などで他地域の農民を無礼打ちにしたとしたら、『御免』どころか大変な外交問題になってしまいます。
それに日本刀は高価で、手入れが大変な刃物です。やたらに人を斬ったら刃がボロボロになってしまいます。

E.武士の中での身分差はあった?

長州藩(山口)では江戸時代初期に石高が減らされましたが、殿様は家臣の数を減らしませんでした。
そのため自分で田畑を耕作して生活する下級武士が多く誕生しました。
「郷士(ごうし)」とよばれ、上級武士とは明確な身分の差がありました
しかし、この農民とほとんど変わらない郷士の中から吉田松陰が生まれ、その門下生たちが明治維新を成し遂げたのです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

『ということで、正解はEだけが「Yes」で、その他はすべて「No」でした。どうですか、江戸時代の身分制度のイメージがつかめてきましたか』

《授業続く》

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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
横浜・神奈川の志ある先生の参加をお待ちしています!
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個人的な連絡はコメントからどうぞ。

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