幻の尖閣切手 領土教育
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やってみよう! 作ってみよう!
授業づくりJAPAN
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領土教育「幻の尖閣切手」
琉球政府郵政庁職員たちの
知られざる気概の物語
私たちの本部である【授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」】で、横浜の小学校教諭・安達先生の授業「尖閣はいかにして日本の領土となったか」が紹介されています。
(→リンク先をどうぞ)
今回は、この素晴らしい授業を補足する資料編を掲載します。読み物資料です。
工夫すれば「道徳」の授業にもなると思います。
「愛国心・愛郷心」の徳目でいかがでしょうか。
では、尖閣諸島をめぐる沖縄男児の感動の物語をどうぞ。
■ 不思議な切手 ■

◎ 発問 ◎
切手に注目してください。
1.何が描かれていますか?
疑問に思うことはありますか?
2.どんな場所ですか?
3.鳥の名前は何だと思いますか?
『この切手は、1972年4月14日、祖国復帰直前の沖縄で発行された海洋シリーズ第3集の『海と海鳥と島』という切手です。
切手にはこの島がどこなのか、海鳥の名前は何なのかまったく示されていません。
どうしてでしょうか???』
【読み物資料】
この島がどこなのか長年の謎でしたが、沖縄県石垣市の尖閣諸島を研究する国吉真古(まさふる)氏の聞き取り調査によって、尖閣諸島と判明しました。
実をいうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。
アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥なのです。

沖縄の海でアホウドリが生息する島といえば、尖閣諸島以外にあり得ません。
この琉球切手は、わが国固有の領土である尖閣諸島をテーマにした唯一の切手です。
切手の発行は国家の意思を表すことがあります。
青く美しい海に浮かぶ尖閣諸島。
その南小島の切り立った断崖でアホウドリが飛翔し、戯れている姿を描いた「尖閣切手」。
この切手は、尖閣諸島が日本の沖縄に属していることを明確に主張しています。
尖閣切手は、沖縄の祖国復帰(5月15日)の目前、昭和47年(1972年)4月14日に発行されました。
琉球政府郵政庁の職員たちが、この時期に発行に踏み切った理由は何だったのでしょうか。
この切手が日の目を見るまでには、職員たちの知られざる苦労とそれをはねのける強い意志が存在したのです。
わが国の領土を守らんとする揺るぎない決心で極秘のプロジェクトを遂行した職員たちの気概の物語を紹介しましょう。
◆◆◆
昭和20年(1945年)、大東亜戦争に敗れた日本は連合国(GHQ)に占領されました。
苦難の占領期を終え、昭和27年(1952年)4月28日にわが国は独立を回復しますが、沖縄県はアメリカの直接統治下に置かれました。
当然、尖閣諸島も沖縄の1部としてアメリカの施政権下にあります。
沖縄の郵政事業は昭和23年(1948年)に始まります。
はじめは無料だった郵便配達が有料制になり、「琉球郵便切手」が生まれました。
沖縄の名だたる画家たちが原画を描き、南国風のデザインと鮮やかな色彩で切手コレクターの間で人気を博します。
「沖縄美術の珠玉」と称されたほどです。
日本への復帰で琉球郵便が廃止になるまで、261種を発行しました。
■ 台湾・中国、突如の領有権主張 ■
1960年代、折から石油資源の枯渇が危惧されるようになりました。
そこで、世界各地で新たな油田を発見しようと調査が進められていました。
昭和44年(1969年)のことです。
国際連合のアジア極東経済委員会による海洋調査で、尖閣諸島の周辺にはイラクの埋蔵量に匹敵するほどの大量の石油が存在すると報告されたのです。
尖閣諸島は、明治28年(1895年)1月14日に正式にわが国の領土に編入されました。
明治18年(1885年)以降、日本政府が綿密な現地調査を行なった結果、無人島であり、かつ、清国(中国)の支配が及んでいないことを確認した上での閣議決定です。
尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いようがありません。
ところが、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明すると、海域を接する台湾の国民党政府と中国は、突如、領有権を主張しはじめたのです。
明けて、昭和45年(1970年)、尖閣諸島をめぐる状況はますます緊迫していきました。
200以上もの市町村や経済団体によって「尖閣を守る会」が組織され、大規模な運動がはじまりました。
これを受けて、琉球政府は尖閣諸島の「領土宣言」を発し、琉球立法院も「尖閣防衛」の決議をしています。
琉球政府通産局の砂川局長は、琉球政府が権限を持っている間に尖閣周辺の石油鉱業権を許可したいと、「尖閣開発KK」の創設に奔走しました。
一方、沖縄返還にむけての日米協議は、尖閣諸島の帰属をめぐって紛糾しました。
なぜなら、米国政府が尖閣を返還協定内に含めることを渋ったからです。
日本側は米国の態度に怒りました。
沖縄開発庁の山中定則長官らが尽力して、最終的には無事に返還されることになりました。
そして、ついに昭和46年(1971年)6月、「沖縄返還協定」が調印の運びとなり、翌年5月に沖縄県が祖国に復帰することが決定しました。
ところが、この協定調印を挟んで、4月には台湾の国民政府が、12月には中国が尖閣諸島の領有権を正式に表明したのです。
■ 尖閣切手を発行せよ! ■
中・台の理不尽な領有権主張は、国民の怒りを招きました。
なかでも沖縄県民の危機感は尋常ではありません。
琉球切手の発行を職務とする琉球郵政庁の職員たちも思いは同様でした。
「琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間に、尖閣諸島を題材にした切手を発行したい」
切手の発行によって、尖閣諸島がまぎれもなく日本の領土であるということを刻印したいとの強い思いが湧き上がってきたのです。
そこで、琉球郵政庁は、尖閣諸島の1つである魚釣島の「地図切手」の発行を計画します。
原画を滞りなく作成し、大蔵省(現・財務省)印刷局に切手の印刷を依頼しました。
印刷も仕上がり、あとは琉球郵政庁に向けて発送を待つばかりという時、その地図切手の存在が外務省の知るところとなりました。
すると、何と外務省は
「中国や台湾などを刺激する」
として、発行禁止を強く要求してきたのです。
この時期、中・台は不当な領有権主張をますます強めており、日米両政府は両国を刺激しないように神経質になっていました。
「こんな時に尖閣諸島を描いた切手などとてもじゃないが発行できない。
これで外交がこじれてしまったら一大事だ」
ということでしょう。
沖縄はまだ返還されておらず、米国統治下にあったのですから、琉球政府に対する外務省の要求は米国への内政干渉にあたります。
しかし、順調な沖縄返還を望んでいた米国政府が目くじらを立てなかったため、琉球政府は切手の発行を断念せざるを得ませんでした。
これに切歯扼腕したのが、郵券課長の浜元暁男氏でした。
「尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか。
長い目で見るなら、ここで尖閣の領有権を明確にしておく方が得策ではないか!」

海軍予科練出身で剛胆な性格だった浜元課長は、
「それならば、せめて尖閣を舞台にした『海洋シリーズ切手』を発行したい」
と思いました。
折しも復帰3年後の昭和50年(1975年)に「沖縄国際海洋博覧会」の開催が決定されていました。
この海洋博記念を名目にして海洋シリーズを企画し、これに尖閣諸島を盛り込めば、復帰直前の混乱の中で当局のチェックをごまかせるのではないか、と考えたのです。
「日本政府が尖閣切手を認めないというなら、巧妙にカムフラージュして、推し進めるだけだ。
政府は『琉球政府が勝手に発行した』とすればよい」
と浜元課長は強気です。
こうして、郵政庁首脳幹部だけの「極秘プロジェクト」による尖閣切手の発行計画がスタートしました。
ただし、万一、情報が洩れて日本政府の知ることになったら、すべては水泡に帰してしまいます。
プロジェクトの遂行には、細心の注意が必要でした。
海洋シリーズ切手は、次の3つで構成されることになりました。
•第1集:「島と海」(昭和47年3月21日発行)
•第2集:「珊瑚礁」(同年3月30日発行)
•第3集:「海と海鳥と島」(同年4月14日発行)
第1集「島と海」は、実は「魚釣島と尖閣の海」の図柄を計画しました。
「海上にまっすぐ突き出た岩石の島だけでは、どこの島なのか誰も分からない。
何か言われたら、最後まで知らぬ存ぜぬで押し通すぞ」
と浜元課長。
切手の原画を描くためには写真が必要です。
そこで、峻険な岸壁が鋸立する魚釣島の雄姿を撮影するために、2人の部下を2週間の出張に出しました。
しかし、天候不順で部下たちは尖閣諸島までたどり着けず、写真を撮ることができませんでした。
この秘策は失敗…、やむをえず第1集の題材は「慶良間諸島の海と島」に変更となりました。
切手の図案を思案しているところに大ニュースが飛び込んできました。
昭和46年(1971年)、琉球大学調査団が、国指定の特別天然記念物で絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島の南小島で生息しているのを発見したのです。
この種は地球上で、伊豆諸島の鳥島(東京都)にしか生息していないとされていたので、沖縄中が沸きました。
そこで、浜元課長は
「アホウドリを描いた切手を発行することで間接的に尖閣諸島が沖縄に属していることを主張できる」
と考えました。
浜元課長は第3集の原画を画家の安次富(あしとみ)長昭氏(現・琉球大名誉教授)に依頼します。
そして、描く島は「尖閣諸島の南小島」、描く鳥は「アホウドリなり」と注文をつけました。

しかし、珍しい鳥なので安次富画伯は実物を見たことがありません。
そこで、郵政庁長だった渡嘉敷真球(しんきゅう)氏がじきじきにアトリエまでアホウドリの剥製を届けにきます。
さらに、アホウドリを発見した琉球大調査団団長の池原貞雄教授から、この時に撮った写真を借り、調査団メンバーの新納(にいろ)義馬教授から尖閣諸島の情景を詳細に聞き取りました。
尖閣諸島の紺青の海、波洗う峻険な南小島の断崖、その上空を舞い、岩場で戯れるアホウドリ。
安次富画伯は資料を元に描いていきます。
完成した「海と海鳥と島」、すなわち「尖閣の海とアホウドリと南小島」の原画は、目が覚めるような鮮やかさで素晴らしい出来映えでした。
第3集の極秘プロジェクトは着々と進展しました。
切手審議会を問題なくパスし、大蔵省印刷局へ送付、日本政府からのクレームもなく250万部が印刷されました。
尖閣切手は、誰もが一般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑いませんでした。
浜元課長の作戦は功を奏しました。
そして、4月14日、尖閣切手は予定通り発行されました。
それは沖縄の祖国復帰、すなわち琉球郵政庁消滅の1ヶ月前のことでした。
尖閣諸島の研究者・国吉真古(まさふる)氏は次のように述べています。
「現政府の尖閣への対応は期待外れ。
当時の職員は領土に対する強い思いがあったはずだ。
多くの人々に認識を深めてほしい」
身の危険も顧みず、尖閣諸島を守るために極秘プロジェクトを成功させた浜元氏をはじめとする琉球郵政庁の職員たち。その愛国心・愛郷心の確かさに心打たれます。
南国風の色鮮やかな尖閣切手は、尖閣諸島の日本領有を主張し続けているのです。
《終わり》

切手の説明書。海洋シリーズ第3集『海と海鳥と島』
〈参考資料〉
◆尖閣諸島文献資料編纂会
『尖閣研究ー高良学術調査団資料集上下』(データム・レキオス)2007年
◆読売新聞2012年5月11日
「『尖閣』秘した琉球切手」
◆琉球新報 2010年11月1日
論壇「尖閣諸島の琉球政府切手 日本政府の〝干渉〟で幻に」

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領土教育「幻の尖閣切手」
琉球政府郵政庁職員たちの
知られざる気概の物語
私たちの本部である【授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」】で、横浜の小学校教諭・安達先生の授業「尖閣はいかにして日本の領土となったか」が紹介されています。
(→リンク先をどうぞ)
今回は、この素晴らしい授業を補足する資料編を掲載します。読み物資料です。
工夫すれば「道徳」の授業にもなると思います。
「愛国心・愛郷心」の徳目でいかがでしょうか。
では、尖閣諸島をめぐる沖縄男児の感動の物語をどうぞ。
■ 不思議な切手 ■

◎ 発問 ◎
切手に注目してください。
1.何が描かれていますか?
疑問に思うことはありますか?
2.どんな場所ですか?
3.鳥の名前は何だと思いますか?
『この切手は、1972年4月14日、祖国復帰直前の沖縄で発行された海洋シリーズ第3集の『海と海鳥と島』という切手です。
切手にはこの島がどこなのか、海鳥の名前は何なのかまったく示されていません。
どうしてでしょうか???』
【読み物資料】
この島がどこなのか長年の謎でしたが、沖縄県石垣市の尖閣諸島を研究する国吉真古(まさふる)氏の聞き取り調査によって、尖閣諸島と判明しました。
実をいうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。
アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥なのです。

沖縄の海でアホウドリが生息する島といえば、尖閣諸島以外にあり得ません。
この琉球切手は、わが国固有の領土である尖閣諸島をテーマにした唯一の切手です。
切手の発行は国家の意思を表すことがあります。
青く美しい海に浮かぶ尖閣諸島。
その南小島の切り立った断崖でアホウドリが飛翔し、戯れている姿を描いた「尖閣切手」。
この切手は、尖閣諸島が日本の沖縄に属していることを明確に主張しています。
尖閣切手は、沖縄の祖国復帰(5月15日)の目前、昭和47年(1972年)4月14日に発行されました。
琉球政府郵政庁の職員たちが、この時期に発行に踏み切った理由は何だったのでしょうか。
この切手が日の目を見るまでには、職員たちの知られざる苦労とそれをはねのける強い意志が存在したのです。
わが国の領土を守らんとする揺るぎない決心で極秘のプロジェクトを遂行した職員たちの気概の物語を紹介しましょう。
◆◆◆
昭和20年(1945年)、大東亜戦争に敗れた日本は連合国(GHQ)に占領されました。
苦難の占領期を終え、昭和27年(1952年)4月28日にわが国は独立を回復しますが、沖縄県はアメリカの直接統治下に置かれました。
当然、尖閣諸島も沖縄の1部としてアメリカの施政権下にあります。
沖縄の郵政事業は昭和23年(1948年)に始まります。
はじめは無料だった郵便配達が有料制になり、「琉球郵便切手」が生まれました。
沖縄の名だたる画家たちが原画を描き、南国風のデザインと鮮やかな色彩で切手コレクターの間で人気を博します。
「沖縄美術の珠玉」と称されたほどです。
日本への復帰で琉球郵便が廃止になるまで、261種を発行しました。
■ 台湾・中国、突如の領有権主張 ■
1960年代、折から石油資源の枯渇が危惧されるようになりました。
そこで、世界各地で新たな油田を発見しようと調査が進められていました。
昭和44年(1969年)のことです。
国際連合のアジア極東経済委員会による海洋調査で、尖閣諸島の周辺にはイラクの埋蔵量に匹敵するほどの大量の石油が存在すると報告されたのです。
尖閣諸島は、明治28年(1895年)1月14日に正式にわが国の領土に編入されました。
明治18年(1885年)以降、日本政府が綿密な現地調査を行なった結果、無人島であり、かつ、清国(中国)の支配が及んでいないことを確認した上での閣議決定です。
尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いようがありません。
ところが、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明すると、海域を接する台湾の国民党政府と中国は、突如、領有権を主張しはじめたのです。
明けて、昭和45年(1970年)、尖閣諸島をめぐる状況はますます緊迫していきました。
200以上もの市町村や経済団体によって「尖閣を守る会」が組織され、大規模な運動がはじまりました。
これを受けて、琉球政府は尖閣諸島の「領土宣言」を発し、琉球立法院も「尖閣防衛」の決議をしています。
琉球政府通産局の砂川局長は、琉球政府が権限を持っている間に尖閣周辺の石油鉱業権を許可したいと、「尖閣開発KK」の創設に奔走しました。
一方、沖縄返還にむけての日米協議は、尖閣諸島の帰属をめぐって紛糾しました。
なぜなら、米国政府が尖閣を返還協定内に含めることを渋ったからです。
日本側は米国の態度に怒りました。
沖縄開発庁の山中定則長官らが尽力して、最終的には無事に返還されることになりました。
そして、ついに昭和46年(1971年)6月、「沖縄返還協定」が調印の運びとなり、翌年5月に沖縄県が祖国に復帰することが決定しました。
ところが、この協定調印を挟んで、4月には台湾の国民政府が、12月には中国が尖閣諸島の領有権を正式に表明したのです。
■ 尖閣切手を発行せよ! ■
中・台の理不尽な領有権主張は、国民の怒りを招きました。
なかでも沖縄県民の危機感は尋常ではありません。
琉球切手の発行を職務とする琉球郵政庁の職員たちも思いは同様でした。
「琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間に、尖閣諸島を題材にした切手を発行したい」
切手の発行によって、尖閣諸島がまぎれもなく日本の領土であるということを刻印したいとの強い思いが湧き上がってきたのです。
そこで、琉球郵政庁は、尖閣諸島の1つである魚釣島の「地図切手」の発行を計画します。
原画を滞りなく作成し、大蔵省(現・財務省)印刷局に切手の印刷を依頼しました。
印刷も仕上がり、あとは琉球郵政庁に向けて発送を待つばかりという時、その地図切手の存在が外務省の知るところとなりました。
すると、何と外務省は
「中国や台湾などを刺激する」
として、発行禁止を強く要求してきたのです。
この時期、中・台は不当な領有権主張をますます強めており、日米両政府は両国を刺激しないように神経質になっていました。
「こんな時に尖閣諸島を描いた切手などとてもじゃないが発行できない。
これで外交がこじれてしまったら一大事だ」
ということでしょう。
沖縄はまだ返還されておらず、米国統治下にあったのですから、琉球政府に対する外務省の要求は米国への内政干渉にあたります。
しかし、順調な沖縄返還を望んでいた米国政府が目くじらを立てなかったため、琉球政府は切手の発行を断念せざるを得ませんでした。
これに切歯扼腕したのが、郵券課長の浜元暁男氏でした。
「尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか。
長い目で見るなら、ここで尖閣の領有権を明確にしておく方が得策ではないか!」

海軍予科練出身で剛胆な性格だった浜元課長は、
「それならば、せめて尖閣を舞台にした『海洋シリーズ切手』を発行したい」
と思いました。
折しも復帰3年後の昭和50年(1975年)に「沖縄国際海洋博覧会」の開催が決定されていました。
この海洋博記念を名目にして海洋シリーズを企画し、これに尖閣諸島を盛り込めば、復帰直前の混乱の中で当局のチェックをごまかせるのではないか、と考えたのです。
「日本政府が尖閣切手を認めないというなら、巧妙にカムフラージュして、推し進めるだけだ。
政府は『琉球政府が勝手に発行した』とすればよい」
と浜元課長は強気です。
こうして、郵政庁首脳幹部だけの「極秘プロジェクト」による尖閣切手の発行計画がスタートしました。
ただし、万一、情報が洩れて日本政府の知ることになったら、すべては水泡に帰してしまいます。
プロジェクトの遂行には、細心の注意が必要でした。
海洋シリーズ切手は、次の3つで構成されることになりました。
•第1集:「島と海」(昭和47年3月21日発行)
•第2集:「珊瑚礁」(同年3月30日発行)
•第3集:「海と海鳥と島」(同年4月14日発行)
第1集「島と海」は、実は「魚釣島と尖閣の海」の図柄を計画しました。
「海上にまっすぐ突き出た岩石の島だけでは、どこの島なのか誰も分からない。
何か言われたら、最後まで知らぬ存ぜぬで押し通すぞ」
と浜元課長。
切手の原画を描くためには写真が必要です。
そこで、峻険な岸壁が鋸立する魚釣島の雄姿を撮影するために、2人の部下を2週間の出張に出しました。
しかし、天候不順で部下たちは尖閣諸島までたどり着けず、写真を撮ることができませんでした。
この秘策は失敗…、やむをえず第1集の題材は「慶良間諸島の海と島」に変更となりました。
切手の図案を思案しているところに大ニュースが飛び込んできました。
昭和46年(1971年)、琉球大学調査団が、国指定の特別天然記念物で絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島の南小島で生息しているのを発見したのです。
この種は地球上で、伊豆諸島の鳥島(東京都)にしか生息していないとされていたので、沖縄中が沸きました。
そこで、浜元課長は
「アホウドリを描いた切手を発行することで間接的に尖閣諸島が沖縄に属していることを主張できる」
と考えました。
浜元課長は第3集の原画を画家の安次富(あしとみ)長昭氏(現・琉球大名誉教授)に依頼します。
そして、描く島は「尖閣諸島の南小島」、描く鳥は「アホウドリなり」と注文をつけました。

しかし、珍しい鳥なので安次富画伯は実物を見たことがありません。
そこで、郵政庁長だった渡嘉敷真球(しんきゅう)氏がじきじきにアトリエまでアホウドリの剥製を届けにきます。
さらに、アホウドリを発見した琉球大調査団団長の池原貞雄教授から、この時に撮った写真を借り、調査団メンバーの新納(にいろ)義馬教授から尖閣諸島の情景を詳細に聞き取りました。
尖閣諸島の紺青の海、波洗う峻険な南小島の断崖、その上空を舞い、岩場で戯れるアホウドリ。
安次富画伯は資料を元に描いていきます。
完成した「海と海鳥と島」、すなわち「尖閣の海とアホウドリと南小島」の原画は、目が覚めるような鮮やかさで素晴らしい出来映えでした。
第3集の極秘プロジェクトは着々と進展しました。
切手審議会を問題なくパスし、大蔵省印刷局へ送付、日本政府からのクレームもなく250万部が印刷されました。
尖閣切手は、誰もが一般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑いませんでした。
浜元課長の作戦は功を奏しました。
そして、4月14日、尖閣切手は予定通り発行されました。
それは沖縄の祖国復帰、すなわち琉球郵政庁消滅の1ヶ月前のことでした。
尖閣諸島の研究者・国吉真古(まさふる)氏は次のように述べています。
「現政府の尖閣への対応は期待外れ。
当時の職員は領土に対する強い思いがあったはずだ。
多くの人々に認識を深めてほしい」
身の危険も顧みず、尖閣諸島を守るために極秘プロジェクトを成功させた浜元氏をはじめとする琉球郵政庁の職員たち。その愛国心・愛郷心の確かさに心打たれます。
南国風の色鮮やかな尖閣切手は、尖閣諸島の日本領有を主張し続けているのです。
《終わり》

切手の説明書。海洋シリーズ第3集『海と海鳥と島』
〈参考資料〉
◆尖閣諸島文献資料編纂会
『尖閣研究ー高良学術調査団資料集上下』(データム・レキオス)2007年
◆読売新聞2012年5月11日
「『尖閣』秘した琉球切手」
◆琉球新報 2010年11月1日
論壇「尖閣諸島の琉球政府切手 日本政府の〝干渉〟で幻に」

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