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道徳 『心を整える』長谷部誠

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授業づくりJAPANが公開する授業案はご自由に追試してください。ただし、授業実践論文やレポートなどで公開される場合は、一言、「この授業は、授業づくりJAPANの○○氏の実践である」とお断りください。
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道徳1-(1)心を鎮める・自省の心

長谷部誠『心を整える』
勝利をたぐり寄せるための56の習慣
 から
 

《授業開始》--------------------

●まず、長谷部誠さんの写真を見せます。

91-aa長谷部誠

【発問1】--------------
このひとは誰ですか?
------------------


【答え】長谷部誠

『長谷部選手は、ドイツのヴォルフブルクで活躍するサッカー選手です。
2010年の南アフリカ・ワールドカップでは、ゲームキャプテンとしてベスト16、2011年のアジアカップではキャプテンとして、優勝に貢献しました。
長谷部選手は特に特徴がある選手ではありません。
特別に優れた技術やセンスを持つわけでもないそうです。
しかし、彼は日本でもドイツでも、常に監督やチームメイトに信頼され、良い結果を出してきました。
彼が活躍できる秘密は何でしょうか。
今日は、長谷部選手が著した『心を整える?勝利をたぐり寄せるための56の習慣』を紹介します。

【発問2】-------------------------
あなたが「心を整える」ための良いと思っていることは何ですか?
-----------------------------

【生徒の答え】
・寝る。
・音楽を聴く。
・ピアノを弾く。
・1人になってよく考える。
・自分の好きなことを好きなだけやる。
・深呼吸をする。
・ぼうーっとする。
・飲み物を飲む。
・黙想する。
・お風呂に入る。
・よく食べる。

『長谷部さんの本から、心の整え方を学びましょう』

【道徳資料】長谷部誠著『心を整える』から **************

長谷部選手は自分の「心」をとても大切にしています。
「心を強くする」というよりも「心を調整する」ことを意識するようにしています。
常に安定した心で備えることで、試合で良いパフォーマンスができるようにするのだそうです。

調整は、生活のリズム、睡眠、食事、練習などすべてに及びます。
友達と遊んでいれば時間はあっという間にたってしまいますし、インターネットやゲームを夜遅くまでやってしまうと心のバランスはすぐに崩れてしまいます。
長谷部選手の真面目さは、「プロフェッショナルとは、どのようなものか」を教えてくれます。
以下に、抜粋して紹介します。

******************************************************

【1】意識して「心を鎮める時間」をつくる

南アフリカ・ワールドカップの期間中、長谷部選手が滞在していたホテルには、選手のリフレッシュ用に卓球・ダーツ・テレビゲームなどが用意されていました。
しかし、長谷部選手は、どの遊びも利用しませんでした。
なぜなら、1日の最後に30分間の「心を鎮める時間」がほしかったからです。
チームメイトに「つき合いが悪いよ」と言われても、この心を鎮める時間だけは譲れませんでした。
長谷部選手は部屋に戻り、電気をつけたままベッドに横になります。
音楽もテレビも消します。
目を開けたまま、天井を見つめ、息を整えながら全身の力を抜いていきます。
ひたすらボーッとしていてもいいし、頭に浮かんだことについて考えてもいいのです。
大事なのはザワザワした心を少しずつ沈静化させていくことなのです。
長谷部誠選手は、1日30分の心を鎮める時間をとるようにしたことで、どんな迷いをかかえても、翌日は平常心で部屋を出ることができるようになったそうです。

【2】整理整頓は心の掃除に通じる

「整理整頓は、人生の半分である」
これはドイツのことわざです。
整理整頓は人生の半分といえるくらい大事なのだよ、ということなのですが、日頃から整理整頓を心がけていれば、生活や仕事に「規律」と「秩序」をもたらすという意味です。
試合に負けた次の日は、何もしたくなくて部屋が散らかることが多いそうです。
しかし、長谷部選手は、そういうときこそ整理整頓を心がけます。
こうして、心の中もいっしょに掃除するのだそうです。

【3】マイナス発言は自分を後退させる
サッカーはいろいろな要素が組み合わされて結果が出ます。
そこで、ミスを人のせいにすることがよくあります。
他の集団競技にも当てはまりますね。
しかし、愚痴は負の言葉です。
負の言葉は、現状をとらえる力を鈍らせてしまいます。
その上、自分で自分の心を乱してしまうのです。

心を正しく整えるために、愚痴はまったく必要ありません。

【4】孤独に浸かる

「自分にとって本当に大切なものは何なのか。
自分と向き合う時間を作るのに『ひとり温泉』はうってつけだ」と長谷部選手は言っています。
私たちはそうそう温泉には行けませんが、日常生活の中で、意識して「孤独」な時間を持つことで自分に向き合ってみましょう。
長谷部選手は、イギリスの文豪トーマス・カーライルのこんな言葉を紹介しています。
「ハチは暗闇でなければ蜜をつくらぬ。脳は沈黙でなければ思想を生ぜぬ」

【5】読書は自分の考えを進化させてくれる

長谷部選手は次のように読書の効能を説いています。
「読書は人前で発言する機会が多いプロサッカー選手にとって、言葉のセンスを磨くうえでも大事かもしれない」
長谷部選手のものすごい読書量は有名です。
言葉のセンスだけではなく、彼の哲学も読書に支えられていることは間違いありません。

【6】遅刻が努力を無駄にする

「子供のときから現在まで、サッカーに関してボクだけの集合時間がある。
常に1時間前に着くようにしている。
レアルマドリードのジョゼ・モウリーニョ監督は遅刻にすごく厳しい監督で、シーズン前の合宿で、ある選手が寝坊したとき、バスに乗せずに練習に参加させなかったそうだ」

時間を守れるかどうかは、日常の「覚悟」の問題だと思います。
覚悟のない人と真剣勝負はできませんね。

【7】人間は変われる

「僕はサッカーを通じて、いろいろな経験をさせてもらった。
いま自分が言えるのは、挑戦し続け、その場その場で全力でもがき続けると、人間は変われるということだ」

その時その時に、自分に与えられたステージで懸命に努力すること。
地道に努力し、これを続けることで、着実に人間は成長し、変わっていけるのだそうです。

【8】感謝は自分の成長につながる

【3】の「マイナス発言は自分を後退させる」の反対ですね。
自分の身のまわりに起こることのすべては、多くの人たちに支えられて存在していると長谷部選手は言います。
多くの人々の働きがあって、今の環境があるということを説いています。
人間は自分1人で生きているような気になっていてはいけません。
周りのことすべてに感謝の気持ちを持つことが成長するポイントなのです。

◆◆◆

長谷部選手は、その真面目さから周りから厚く信頼されています。
あまりに真面目なので、若手選手からも、からかわれることがあるそうです。
しかし、それが先輩後輩を超えた一体感を生み出しているといいます。
この本に書かれた「心を整える」ための習慣の中で、「おっ、ここが他の選手と違うところだな!」と思ったことがあります。
それは、長谷部選手が1日30分1人で自分を振り返る時間を持っていることです
この30分で、自分のプレーや生活態度を見つめ直し、反省し、もっと向上するにはどうすればよいかを考えるのです。
諸君も見習ったらどうでしょうか?

でも、いきなり30分でなくてもいいと思いますよ。
最初は5分だけでも良いと思います。
その5分間で、自分の生活を振り返り、

◎反省する(1つで良いでしょう。あまり多すぎてもね…)
◎感謝する(たくさんしましょう)
◎決心する(これも1つ)

などを考えましょう。
心が整ってきて、明日は最高のパフォーマンスができるようになるかもしれませんよ。

【発問3】-------------------------
資料を読んで、「これはいいなぁ。自分もやってみよう」と思ったことを3つ書き出してみましょう。
-----------------------------


【生徒の答え】(多かったもの)
・心を鎮める時間を作る
・整理整頓は心の掃除
・遅刻が努力を無駄にする
・マイナス発言をしない
・感謝は自分の成長につながる
・読書は自分の考えを進化させる


【発問4】-------------------------
長谷部選手の生き方に照らして、今の自分に欠けているものは何でしょうか?
-----------------------------


【生徒の答え】
■私はいつも迷っていることとかがあっても、そのままにして次の日を迎えてしまうので、これからは心を鎮める時間を作るようにしたいと思いました。
■長谷部選手はかっこいいと思います。ちゃんと自分を持っている。
今の私は友達とずっといっしょにいることが多いから、1人になって考えようと思う。
遅刻もしないようにしたい。少しずつで良いから自分を変えたいです。
■長谷部選手は、毎日心を静める時間を持っているのに、自分は毎日何となく部活をやり、何となく授業をやり、何となく遊んでいるだけで、何となくばかりだ。
自分は何も考えずに日々過ごしているだけだとわかりました。
■遅刻の話はすごく共感した。自分は昔、遅刻が多く、練習が全然できない日があったりしてたいへんだったことを覚えている。決心して直すようにした。
これからも悪いと思うことを「意識」して直していこうと思う。
■私は長谷部さんのように心を鎮める時間を作っていなかったので、長谷部さんの考え方は良いなぁと思いました。
また、この部分が自分には欠けていることだと思います。
私もこれから少しずつ挑戦していきたいと思いました。
■私は「マイナス発言は自分を後退させる」というのは良いと思いました。
試合で負けたあとに人に当たってしまうことがあるので、マイナス発言は控えようと思いました。
八つ当たりしないために「心を鎮める時間」をつくって、よく考える時間を作れればいいなと思いました。
■自分はプレーをミスすることは悪いことだと考えていますが、これをマイナスに考えずにプラスにつなげていかなければならないと思いました。
これからは感謝、反省、決心をしていきたいです。
■夜更かしをしないでちゃんと寝る。
もう少し落ち着いた方が良い。
長谷部選手の話はすばらしいですね。人生の歩み方を勉強しました。
■自分で1日を振り返る時間は大切なんだと思った。今日から少しずつ心を鎮める時間を作ろうと思った。
長谷部選手の言葉を見て、自分に足りないことがたくさんあった。
■愚痴を言わないとか、すごいと思った。自分で思っていることを口に出さないでため込んでいるとモヤモヤするし…。
サッカー以外のことでもこんなに努力しているなんて初めて知りました。
全部行うのは無理だけど、反省する、感謝する、決心する、の3つを特に意識していきたい。
■長谷部選手は、自分のやっていることについてちゃんと考えて落ち着いて行動できる人なんだなと思いました。
今すぐには無理だけど、長谷部選手を見習って、愚痴を言わないようにしたいです。
人を気にするよりも自分のことを考えて落ち着いて行動したいです。
■何だかやる気がでないなぁ、なんてボーッとしているときが割と多いので、その時間を無駄にせず、自分を振り返ってみるのも大事だと思いました。

91-bb長谷部誠著『心を整える〜勝利をたぐり寄せるための56の習慣』幻冬舎刊

《授業おわり》

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日本マラソンの父・金栗四三②


道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる
「日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)」
        3度のオリンピック

(つづき)

s-金栗

◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


「マラソンをやめた」
「もっと努力した」
「また教師に戻った」など

『資料4で確認しましょう』

【資料4】その後の金栗四三◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

四三は現役を引退しましたが、指導者として大きな功績を残しました。
その画期的な仕事のひとつが、マラソンシューズの開発です。
底にゴムを張りつけた「金栗足袋」は、全国の運動会などで愛用され、多くの選手たちを助けました。

四三は選手の育成、競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習方法を取り入れていきました。

また、
「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」
と、四三はチームで練習をやろうと考え、箱根駅伝を企画しました。
ふだんの練習をゲームにして、互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めてマラソンのレベルアップにつなげようとしたのです。

さらに、女性のスポーツが一般的でなかった当時、四三は女子体育の大切さを説き、全国に普及させました。

四三は常に日本スポーツ界の先頭に立って、全国を回り、オリンピック運動や陸上競技の普及・向上に努めました。
抜群の発想力、企画力、行動力、指導力、組織力を発揮し、日本スポーツ界のパイオニアとして活躍しました。

戦後も全国マラソン連盟の会長となり、現在のマラソン界につながる試みのほとんどが四三の発案です。
我が国が長距離走に強いのは、四三のおかげと言ってもいいでしょう。

一方で後輩たちからは「お釈迦様」と呼ばれるほど、誠実で温厚な人柄でした。

s-kanakuri411金栗四三

そんな四三の座右の銘は
「体力、気力、努力」
です。

現役時代から換算すると四三の全走行距離はなんと25万km、およそ地球6周以上にもなります。


世界のマラソン界でも金栗四三の名は知れ渡り、いつしか四三は「日本マラソンの父」と呼ばれるようになりました。

そんな彼のただひとつの心残りがストックホルム大会での挫折でした。

初のオリンピックを途中棄権してから50年余りが過ぎた昭和42(1967)年。
75歳になった四三のところにスウェーデンのオリンピック委員会から招待状が届きました。
「ストックホルムオリンピック開催55周年」を記念する式典に招待するというのです。

実はストックホルム大会の時、正式に棄権届けを出していなかったので、四三は
「競技中に失踪し、行方不明」
として扱われていたのです。
その「消えた日本人選手」が、今も健在であることを知った委員会が四三を招待したのでした。
その招待状には、なんと次のように書いてあったのです。

「あなたは、1912年のストックホルムオリンピックマラソン競技において、まだゴールをされていません。
あなたがゴールするのをお待ちしております」


四三は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
するとそこには、一本のゴールテープが用意されていました。
彼のためだけに用意されたゴールです。
観客の割れるような拍手の中、四三は20メートルほどの直線を走ってテープを切りました。
スタジアムには、

「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これで第5回ストックホルム大会は、全日程を終了しました」


とアナウンスが流れました。
観客たちは、20歳でスタートし、75歳でゴールした四三を声援と拍手でたたえました。

四三は、これに答えて

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

とユーモアあふれるコメントを返し、ストックホルムの人々は大喜びです。

この記録はオリンピック公式記録として認定されました。
今後、この記録が破られることはないでしょう。

s-kanakuriten854年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールした瞬間


昭和59(1984)年11月13日、四三は93才で永眠しました。
箱根駅伝では、彼の功績をたたえて、最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料4】を読んで、考えたことや感心したことは何ですか。
今日の学習内容に照らして、現在の自分はどうですか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


(授業 終わり)


日本マラソン界に多大なる貢献をした四三の功績を称えるとともに、不屈の闘志で頑張った四三から
「努力を続けることの大切さ」
を学びとらせたいですね。

また、スウェーデン人の粋なはからいに感動しました。
偉大な人の功績は、国境を越えるのでしょう。

現在、ストックホルム近郊のマラソンコースがあった町「ソレントゥナ」に金栗四三の記念銘板が設置されています。

s-ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板Commemorative_plaque_of_Shizo_Kanakuri_in_Sollentuna

左の女性が、四三を介抱してくれた農家の人の子孫ですって。
JOCの竹田会長からプレート贈呈。

s-金栗四三 JOCが感謝のプレート贈呈 百年前、マラソン金栗を介抱した家族の子孫に

■参考文献■

・『熊本陸上競技史』(熊本陸上競技協会創立60周年記念)
平成19年3月発行
・熊本県和水町HP「マラソンの父・金栗四三」
 http://www.town.nagomi.lg.jp/default.asp
・熊本県立玉名高等学校HP「大先輩」
 http://www.higo.ed.jp/sh/tamanash/
・『走れ25万キロ―マラソンの父金栗四三伝』
 豊福一喜、長谷川孝道(講談社)
・『走ったぞ!! 地球25万キロ―マラソンの父・金栗四三』
 浜野卓也、清水耕蔵(佼成出版社)
・ビデオ『夢をかなえた男マラソン王 金栗四三』
 (テレビ熊本偉人シリーズ)1999年作品
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日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)


道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる
「日本マラソンの父・金栗四三」
        3度のオリンピック


◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

あなたは挫折したことがありますか?
どんなことで落ち込みましたか?
あなたは、なぜ挫折をしないのでしょうか?
今は立ち直ってますか?
どうやって立ち直りましたか?
どうすれば立ち直れると思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


中学生といえども、たいがい誰でも大なり小なりの挫折を経験しているものです。
今日の徳目は「強い意志」とは何かを考えること。
ひとしきり生徒に自分自身を振り返らせたあと、【資料1】に入ります。

【資料1】オリンピック日本人選手第1号◆◇◆◇◆◇◆

箱根駅伝20140102204158

今や正月の恒例行事となっている箱根駅伝。
その第1回大会は大正9年(1920年)2月14、15日に行なわれました。
慶応大・明治大・早稲田大・東京高等師範(現筑波大学)の4校で競いました。
数々のドラマはこの時から始まりました。
この箱根駅伝の提唱者が金栗四三という人です。

さて、日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年、スウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会です。
参加した日本代表選手は、たったの2人。
そのひとりがマラソン代表の四三(しぞう)でした。

日本で「マラソン=42.195キロ」が定着したのは1911年。
このストックホルム大会の前年に行われた国内予選のことです。
これが日本初の公式マラソンでした。

日本マラソンの始まりは劇的でした。
羽田からスタートして川崎を経て、東神奈川で折り返すコースです。
この大会で四三は、雨風の悪条件の中、2時間32分45秒のタイムで優勝し、なんと当時の世界記録(2時間59分45秒)を27分も縮めたのです!

東京中に号外が舞ったといいます。
この驚くべき記録で優勝した四三は、翌年のストックホルムオリンピックに「日本人選手第1号」として出場することになりました。
この時、20歳の若者でした。

金栗四三は、明治24(1891)年8月20日、熊本県和水(なごみ)町の造り酒屋に生まれました。
父親が43歳の時に生まれたので、四三と名付けられました。
小学校時代は往復12キロの道のりを、毎日走って通学したといいます。
中学校時代は特待生に推薦されるほどの秀才で、スポーツの経験はなかったそうです。

東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(かのうじごろう)(講道館柔道創始者)に才能を見出されます。
陸上競技部に入部し、独特の工夫とアイディア、人の何倍もの努力を積み重ね、たちまち学校を代表するランナーに成長していきました。

オリンピック代表選手に選ばれた時、四三は、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもある嘉納校長に、胸の内を打ち明けました。

「先生、羽田のレースでは幸運にも勝つことができました。
しかし、充分な練習も準備もできていないまま、たとえ3、4ヶ月のトレーニングを積んだとしても全く自信はありません。
行けば是非勝ちたいと思うでしょう。
また、勝たねば期待してくれる国民諸君に申し訳ありません」

日本人初のオリンピック出場に、四三には巨大なプレッシャーがのしかかっていました。

s-1924年に開催されたオリンピック、第8回パリ大会での金栗四三選手。足袋を履いている。
「日本マラソンの父」といわれている金栗四三の現役時代(左)。足に履いているのは何でしょう?

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

金栗四三はオリンピックへの出場を決意するのですが、それは何のためだと思いますか?

ア、自分自身のため
イ、家族や世話になった人達のため
ウ、その他

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


【資料2】「JAPANなら、やめます」◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック出場に迷う四三に対して、嘉納は
「君の足で、君のマラソンの力で、日本のスポーツの海外発展のきっかけを築いてくれ。
勝ってこいというのではない。
最善を尽くしてくれればいいのだ。
日本スポーツ界のために『黎明(れいめい)の鐘』となりなさい」
と説きました。

黎明とは、夜明けのことです。
「黎明の鐘」という言葉にしびれた、と四三は決意します。

「実力を発揮すれば必ず金メダルが獲得できる!」
マラソンシューズなどは持っていないので、四三は底を厚く縫い合わせた足袋を履いて競技していました。
この格好で、絶対に優勝してみせるとの信念で、ストックホルムへと向かいました。

開幕の直前、組織委員会から「日本の国名標示をどうするか」と問い合わせが来ました。
四三が「正式の国名どおりに漢字で『日本』とすべきでしょう」と提案。
「それでは外国人には読めない。やはり英語でJAPANに」と国際通の監督。
ところが、四三は
「それは外国人が勝手につけた名前です。
『日本』という本当の呼び名を使い、世界の人々に知らせる必要がある。
JAPANならプラカードを持つのをやめます」
と譲りません。
困ったみんなが一斉に団長の嘉納治五郎の顔を見ます。
「ウーム、どちらも一理ある。発音はニッポン、標記はローマ字。つまりNIPPONでどうか」
この調停に一件落着しました。

このエピソードは、四三が母国日本のために戦うと強く決意していたことを良く表しています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

●発問2の答は「その他」→「日本のため」でした。
「国の代表」という重みと四三の気概を感じ取らせたいところです。

s-五輪ストックホルム大会旗手スキャン_edited
1912年7月14日 開会式の入場行進
短距離走の三島弥彦が国旗、四三はプラカードを持つ。
出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく、観衆の同情をひいた。



【資料3】歴史に残る過酷なレース◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック最終日、マラソンがスタートしました。
しかし、四三は冬のマラソンしか経験が無かったのです。
しかも当日は北欧では珍しい猛暑の40度近い炎天下、参加選手68人中で完走したのはわずか37人でした。
意識不明で死者まで出る歴史に残る過酷なレースになったのです。

母国日本の期待を一身に背負った四三も、初めての海外遠征・慣れない洋食・白夜(びゃくや)とストレスによる睡眠不足がたたり、25キロを過ぎたところで意識不明となりました。
熱中症です。

近くの農家に助けられ、目を覚ました時は翌日の朝になっていました。
競技中に姿を消したので大騒ぎになり、「日本人選手が行方不明」と新聞にまで載ってしまいました。

四三は日記に

「大敗後の朝を迎えた。
自分の一生で最も重大な記念すべき日だったのに。
しかし、失敗は成功の基、またその恥をすすぐ時が来る。
雨降って地固まるの日を待つのみ。
笑わば笑え。
この敗北は日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものである。
重い責任を果たせなかったことは、死んでもなお足らないけれども、死ぬことは簡単なことである。
生きてその恥をすすぎ、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してマラソンの技を磨き、日本の名誉を示そう」


と、あふれる涙をぬぐいながら書きました。

■翌日の日記原文
大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重任を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。(以上抜粋)



帰国後、四三は4年後の第6回ベルリン大会を目標に練習に励みました。
日本選手権などで2回も世界最高記録を出し、誰もが今度こそ金メダル間違いなしと思いました。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オリンピック自体が中止になってしまいました。

それでも、四三はまったくあきらめませんでした。
歴史と地理の先生をしながら、さらに自分の走りに磨きをかけます。
そして迎えた第7回アントワープ大会。
優勝を期待されながら、今度は寒さによる足の痙攣(けいれん)で無念の16位。

次の第8回パリ大会(1924年)では、四三すでに33歳。3
2キロ地点で棄権を余儀なくされました。

結局、四三はストックホルムのリベンジを果たせないまま、悲運のアスリートと言われるようになりました。
s-kanakuriten41第八回パリ大会で激走する四三(1924)
第八回パリ大会で激走する四三(1924)

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


(つづく)
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佐久間艇長(ていちよう)の遺書

1-(3)役割と責任・強い意志
「佐久間艇長の遺書」


佐久間勉遺書

◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

これは手帳に書かれた文字です。
感じたことを一言どうぞ。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


○字がきたない?
○急いで書いている。
○「遺言」って書いてある。 など

『実は…、これは「遺書」です。
手帳の文字は、この人が書きました』

佐久間勉

『名前は佐久間勉(つとむ)。
海軍大尉です。
【資料1】を読みます』

【資料1】 第6潜水艇  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

氏名:佐久間勉
生年月日:明治12(1879)年9月13日
出身:福井県三方(みかた)町
職業:大日本帝国海軍の軍人
早くに妻を亡くし、子供は女の子が一人。

佐久間艇長の第6潜水艇
艇

佐久間勉は、潜水艇の艇長をしていました。
潜水艇とは、海に潜ったまま進む船のこと、今の潜水艦の小さなものです。

我が国が日露戦争に勝利して5年後のことです。
明治43年(1910)4月15日、佐久間艇長の第6潜水艇は潜航の演習をするために山口県の新湊(しんみなと)沖に出ました。
午前10時、演習を始めると、間もなく潜水艇が故障して海水が艦の内部に入り込みました。
そして、後ろに大きく傾いて海底に沈んでしまったのです。
この時、佐久間艇長と乗組員13人は、艇を浮上させようと、排水などできるかぎりの手段を尽くしましたが、艇はどうしても浮きあがりません。
その上、エンジンの排気ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることもできなくなりました。

佐久間艇長は「もはやこれまで」と最期の決心をしました。
そこで、海面から水をとおして司令塔の小さな覗孔(のぞきあな)に入って来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に文字を書きつけはじめました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

佐久間艇長は、どんな内容を書いたと思いますか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


○まだ死にたくない。
○どうしてこんなことになったのだー。
○みんな元気でやってくれ。

『死を目の前にした時…、どんなことを書くでしょうか?
【資料2】で、確認しましょう。』

【資料2】佐久間艇長の遺書 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

佐久間艇長は、ものすごい呼吸困難の中で、半身を海水に浸かりながら遺言を書きました。
かすかな光を頼りに、小さな手帳に39ページにもわたって書き記したのです。

======================
佐久間艇長遺言
小官の不注意により陛下の艇を沈め、部下を殺す、誠に申し訳なし。
されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事をしょせり。
我れ等は国家のため職に斃(たお)れしといえども、ただただ遺憾(いかん)とする所は
天下の士はこれを誤り、もって将来、潜水艇の発展に打撃をあたうるに
至らざるよう憂うるにあり。
願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく
将来、潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
さすれば我れ等、一つも遺憾とするところなし。(以下略)
======================


沈没後、電灯が消えて酸素は刻々と消費されていきます。
ガソリンによるガスは艇内に充満し、部下は一人、また一人と絶命していったのでしょう。

このような状況の中で、佐久間艇長は「天皇陛下の艇を沈め、部下を死なせるに至ったこと」を謝り、「全員が最後までよくその職務を守ったこと」を遺書に書きました。

遺書はこのあと、この事故により「潜水艇開発の発達を妨げることのないように」と、沈没の原因・沈没後の状況について、詳しい説明が続きます。

======================
公遺言(こうゆいごん) 
謹(つつし)んで陛下に白(もう)す。
部下の遺族をして窮(きゅう)するもの
無からしめ給(たま)わんことを。
我が念頭に懸るもの之(これ)あるのみ。
======================


佐久間艇長は、
「部下の家族が困らないようにして下さい」
と天皇陛下に特別な配慮をお願いしました。
続いて、上官や先輩、恩師の名を書きつらねて、別れを告げました。

そのあと、遺書は

=======================
十二時三十分呼吸非常に苦しい。
ガソリンをブローアウトせししつもりなれども、
ガソリンにようた
=======================

と書かれ、最後に

=======================
十二時四十分なり
=======================

と記して終わっています。

ここで佐久間艇長は気を失い、そのまま亡くなったと思われます。
享年30でした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問3 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料2】には、佐久間艇長の願いが2つ書かれていました。
何でしたか?

①事故によって(  )が遅れないようにして欲しい。
②殉職した部下たちの(   )が困らないようにして欲しい。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●資料を確認しながら書かせましょう。

<答え>
①潜水艇の発展・研究
②家族の生活


『私的なお願いは1つもありませんでしたね。
どう思いますか?』

【資料3、4】を読みます。

【資料3】衝撃の事実が明らかに ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

沈没の2日後、ようやく潜水艇は引き揚げられました。
この時、現地に駆けつけた遺族は遠くへ離され、立入りを禁じられました。
なぜ、遺族を遠ざけたのでしょうか?

実は外国での潜水艇の事故では、ハッチを開いてみると、出口に乗組員たちが
「死にたくない!」
と殺到して死んでいることが多かったからです。
それは、我れ先にと争った跡が歴然としていたり、苦しさのあまりノドをかきむしったりしていたのです。
そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかないでしょう。

ところが、いざハッチを開いても、そこには誰の姿も見えませんでした。
「…?」

艇内の奥に入り、その内部の様子を見た関係者たちは思わず息を呑みました。
状況を検分した吉川中佐は「よろしいッ!」と絶叫しました。
そして、泣き崩れたのです。

なんと佐久間艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に…、
と全乗組員がそれぞれの持ち場についた状態のまま死んでいたからです。

これは、14人全員が艇の修復に全力を尽くしたまま息絶えたことを示していました。

そして、佐久間艇長の遺言が、遺体の上着のポケットから発見されました。
死の直前に取り乱さず、後世のために遺書を記していたことに、世界中の人が驚きました。

英国の新聞『グローブ』は、
「日本人は体力上だけでなく、道徳上、精神上もまた勇敢であることを証明している。
今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」
と驚嘆しました。

この事故は今では語られることもなく、佐久間勉の名前を知る日本人はほとんどいません。
しかし、世界各国の潜水学校では尊敬すべき潜水艦乗りとして教育されています。

実は佐久間艇長は、武人の覚悟として以前から遺書を書いて、自分の机の中に置いていました。
その遺言には、「私的な」お願いが書いてありました。

佐久間艇長は何を願っていたと思いますか?

そこには、次のようなことが書いてありました。

=================
我れ死せば遺骨は郷里において
亡き妻のものと同一の棺(ひつぎ)に入れ
混葬(こんそう)さすべし
=================


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)

○すごい人たちだ。
○責任感がすごい。
○奥さんのことがとても好きだったのだと思う。

事故後に、引き揚げられた潜水艇
引き上げられた艇


【資料4】100年後の今も… ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「第6潜水艇殉難慰霊碑」がある呉市の鯛之宮(たいのみや)神社では、毎年追悼式が行われています。
呉市の各小学校では佐久間艇長と遺書のことを学び、感想文を書きます。
その優秀作品を追悼式で本人が朗読します。

平成23年に選ばれた呉中央小学校6年の谷川舞さんは、心に残ったこととして

「沈んでいく船の中で、自分の持ち場を離れずに力を尽くしたこと」
「自分のことだけを考えて行動しなかったこと」
「みんなのことを思う佐久間艇長の思いやり」


の3つを挙げ、東日本大震災に関して、次のように書いています。

《今、日本では、東日本大震災というかつてない大きな地震によって、たくさんの方々が大変な状況の中で生活をしておられます。

その中でも、佐久間艇長さんのような方々がたくさんいることを思い出しました。
食料を譲り合い、自分が持っている物を分けたり、子供や高齢の方を優先したり、自分も苦しいけれど、みんなのために譲り合う姿に心を打たれました。

私がテレビで見た消防士の方は、津波が来るぎりぎりまで車で声をかけて回ったそうです。
結果、亡くなられましたが、最後まで人を思いやっていた方のことが、ずっと心に残っていました。

第六潜水艇の学習をして、この事故は百年も前のことですが、今の日本にもその心は受け継がれていることを感じました。

私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです。
そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考え、責任をもって行動したいです。》


100年後の日本の子供の朗読を、佐久間艇長たち14人の英霊は、どんな気持ちで聞いたでしょうか。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問4 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

今日の話のどんなことが強く心に残りましたか?
自分の職務に対する佐久間艇長の姿勢や覚悟に照らして、今の自分はどうですか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●究極の状況でも職務を果たそうとした佐久間艇長の責任感の強さから、何かを学び取って欲しい。
仕事や勉強、部活動において、今の自分の責任感はどうだろうか?

●「死んだら亡き妻と一緒に墓に入れて欲しい」という私的なお願いが胸を打つ。
きっと家庭では、良き夫であり、良き父であったのだと思う。

●大震災の時、私たちは日本には多くの佐久間艇長がいたことを知っている。
このことを、どう思うか。


(おわり)

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道徳「柴五郎中佐」勇気ある行動④

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無数の弾丸を受け無惨な姿の鶴が城(カラー合成)


柴五郎中佐の人間形成に関わるエピソードをひとつ。

小生は、はじめてこの話を読んだ時、
会津の人々の心情を思い、落涙しそうになりました。

柴五郎中佐の少年時代、戊辰の役前夜のことです。

【陸軍大将・柴五郎の追憶】
(葦津珍彦『天皇―昭和から平成へ』より抜粋)

会津藩では慶応四年の春のころには、すでに朝敵として天下の大軍を迎へて、敗戦を覚悟で戦わねばならないと武家の子女たちも予期してゐた。

柴五郎が、その年の「ひな祭り」の印象的な風景を書き残してゐる。

彼の母は、緋の布をしいて段を設け、内裏様、三人官女、五人囃子など華やかにならべて、優雅なぼんぼりに明かりをつけた。
世情は騒がしさを感じさせたが、家の内は例年のとほりの華やかな、しかも静かな風景だった。(中略)

幼少の五郎は、ひな段の前で聞いた。
「母上、内裏さまは天子様と聞くが誠ですか」と。
母は子の眼を見つめて、ただうなづいた。

五郎は天子様を、このように祭り敬ってゐるのに、なぜ会津が朝敵として討たれねばならないのかと質したかったけれども、その時の母の表情にきびしさを感じて、黙ってしまったと追憶してゐる。


この母は、会津落城にさいして、その子に家を継がせ会津の名誉回復の使命を果たさせるべく田舎へ疎開させた。

そして自らは家に火を放ち、娘を刺して武夫も及ばぬけなげな最後の自刃をとげた。

この最後の日を期してのかの女の、くる日、くる日の生活の記録は、名門会津藩の文化を想わせて、いとも優しくして静かである。(中略)

かの女は「朝敵」の汚名を浴びせられても、それは第二義的政治党派の悲劇的な混乱のためで、お内裏さまは、天下の祭り主として、やがては会津藩の名誉も回復して下さる日の必ず来ることを確信した。

だからこそ、落城と自刃を予期しながらも「ひな祭り」のお内裏さまを拝んだし、幼い子にその名誉回復の使命を託して彼岸へ行った。(中略)

ただ華やかにひな段を作り、ぼんぼりに明かりをつけて、子らとともにお内裏様に手を合わせて祈った。

子供の質したいことを敏感に察したが、未だ学ぶところの少ない子らに愚痴などはいはない。
ただ優美な顔に一瞬きびしさを示して、その子の晩年にいたるまで消え去りがたい深い痛切のセンスを教へた。

ここに日本武士の本当の教育がある。(中略)

優雅にしてきびしい母の眼ざしは、かれの長い生涯の導きとなった。


(引用おわり)

この母ありて、柴五郎中佐があるのですね。
また、武士道の精華の一つは、間違いなく会津にあったと確信した次第です。


【参考文献】
■『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』石光真人(中公新書)
■『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛(光人社NF文庫)
■『天皇―昭和から平成へ』葦津珍彦(神社新報ブックス)
■『北京籠城日記』柴五郎、服部宇之吉(東洋文庫)
享保雛




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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
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