道徳「日本を愛したジャズドラマー」
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4-(3)「公平・公正~差別や偏見のない社会」
しばらく記事の更新ができませんでした。年度当初は忙しいです。
今日は道徳で、「人種平等」をテーマにしたものです。
ミニ道徳です。
《日本を愛したジャズドラマー アート・ブレーキー 》
(アメリカ・1919~1990)
【発問1】 この人は誰ですか。

〔答え〕 アート・ブレーキーさん
【発問2】 何をする人ですか。
〔答え〕 ジャズドラマー
【発問3】 あなたが他人に接するとき…、
①心がけていることは何ですか。
②それはなぜですか。何のためですか。
率直にどうぞ。
『資料を読みましょう』
【資料】「ナイアガラ・ロール」
アート・ブレーキーさんは、“モダン・ジャズのハート・ビート(鼓動)”と呼ばれたジャズ・ドラムの大御所中の大御所のドラマーです。
「ナイアガラ・ロール」との異名を取ったドラムの連打を武器に、ジャズ界を席巻しました。
彼は多くのドラマーに影響を与えると同時に、彼がリーダーとなった「ジャズ・メッセンジャーズ」は、1955年の結成からブレイキーが世を去る90年まで、常にジャズのトップグループとして君臨ました。
そんな彼は、昭和36年(1961)の初来日以降、亡くなる直前まで数え切れないほど日本に来ており、夏の「フェスティバルの顔」でした。
彼のアルバムや楽曲には、「雨月」「京都」「銀座」といった日本語をタイトルにしたものがいくつかあります。
この背景には、昭和36年の初来日の時に「ある出来事」があったからです。
この年の元旦、夜の10時。
アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズのメンバーを乗せた飛行機が羽田空港に降り立ちました。
機内から外へ出たブレーキーさんが見たものは、花束を持ち、こちらに向かって熱狂的に手を振っている無数の若者たちの姿でした。
ブレーキーさんたちは、
「有名人でも乗っているのか?」と
思っていました。
しかし、この若者たちは自分らの来日を歓迎するファンだと知った時、彼の目から大粒の涙があふれだしました。
なぜでしょうか?
当時、ブレーキーさんはアメリカでもジャズ界のスーパースターでした。
しかし、彼は黒人です。
人種差別が根強く残っていたアメリカでは、当然のように差別されていたのです。
だから、日本の若者たちの熱烈な歓迎が信じられなかったのです。
タラップを降りると、ファンからの花束に埋もれ、スピーチを求められましたが、彼らは涙が止らなくてとてもそれどころではありませんでした。
さらに、ブレーキーさんを驚かせることがありした。
一人の若者が彼に近づいてこう言ったのです。
「ミスターブレーキー、お願いがあります。僕と一緒に記念写真を撮ってください」
彼は思わずこう言いました。
「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」
この時、ブレーキーさんは知ったのでした。
「この国の人たちは黒人を差別しない」と。
同じ人間を「肌が黒い」というだけで蔑(さげす)むような考えを持つ者など、この国には一人もいない。
この国の人たちは、本当に自分たちの演奏を聴きたがっている。
この国の人たちは、自分たちの演奏が大好きで、心から自分たちをリスペクト(尊敬)してくれる。
国籍も人種もまったく違う日本人がただただ自分たちの音楽を賞賛してくれている…。
出迎えた日本人にとって、アート・ブレーキーはジャズのスーパースターです。
純粋に彼を尊敬し、日本に来てくれたことに感謝し、歓迎しただけのことでした。
日本人にしてみたら、ごく当たり前ことです。
この当たり前のことが、黒人のブレーキーさんにとって涙が出るほど嬉しいことだったです。
そして、帰国する時に彼はこう述べました。
「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。
それは演奏を聴く態度はもちろん、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人として歓迎してくれたことだ。
ヒューマンビーイングとして!」
八百万(やおよろず)の神様のいる国、縄文の昔から大陸や海からやって来た人・物・文化を取り入れて共生してきた国だからこそ、我が国では肌の色や人種で差別するなどという意識は恥ずべきことでした。
ごく普通の当り前の事を当たり前のようにするのが日本なのです。
こうして、大の親日家になったブレイキーは、その後、日本女性を妻に迎えました。
息子に日本名をつけ、毎年のように来日して、本物のジャズを日本のファンに披露し続けたのです。
《資料おわり》
【発問4】
資料を読んで、感じたことや感心したことはなんですか。
また、今の自分の考えに照らしてどうですか。
『どんな人に対しても公平に接するということは、素晴らしいことです。
日本は、そういうことが当たり前の社会であったし、それがカッコいい生き方でもあります。
クラスや学年、先輩の中には、弱い立場の人に対して、乱暴な態度や口の利き方をしている人がいるでしょう。
それはカッコわるい生き方だし、自分の価値を下げています。
振り返って、自分は人によって態度を変えていないでしょうか…。
大切なことです。よくよく考えてください』
などという話をします。

《授業おわり》
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今日は道徳で、「人種平等」をテーマにしたものです。
ミニ道徳です。
《日本を愛したジャズドラマー アート・ブレーキー 》
(アメリカ・1919~1990)
【発問1】 この人は誰ですか。

〔答え〕 アート・ブレーキーさん
【発問2】 何をする人ですか。
〔答え〕 ジャズドラマー
【発問3】 あなたが他人に接するとき…、
①心がけていることは何ですか。
②それはなぜですか。何のためですか。
率直にどうぞ。
『資料を読みましょう』
【資料】「ナイアガラ・ロール」
アート・ブレーキーさんは、“モダン・ジャズのハート・ビート(鼓動)”と呼ばれたジャズ・ドラムの大御所中の大御所のドラマーです。
「ナイアガラ・ロール」との異名を取ったドラムの連打を武器に、ジャズ界を席巻しました。
彼は多くのドラマーに影響を与えると同時に、彼がリーダーとなった「ジャズ・メッセンジャーズ」は、1955年の結成からブレイキーが世を去る90年まで、常にジャズのトップグループとして君臨ました。
そんな彼は、昭和36年(1961)の初来日以降、亡くなる直前まで数え切れないほど日本に来ており、夏の「フェスティバルの顔」でした。
彼のアルバムや楽曲には、「雨月」「京都」「銀座」といった日本語をタイトルにしたものがいくつかあります。
この背景には、昭和36年の初来日の時に「ある出来事」があったからです。
この年の元旦、夜の10時。
アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズのメンバーを乗せた飛行機が羽田空港に降り立ちました。
機内から外へ出たブレーキーさんが見たものは、花束を持ち、こちらに向かって熱狂的に手を振っている無数の若者たちの姿でした。
ブレーキーさんたちは、
「有名人でも乗っているのか?」と
思っていました。
しかし、この若者たちは自分らの来日を歓迎するファンだと知った時、彼の目から大粒の涙があふれだしました。
なぜでしょうか?
当時、ブレーキーさんはアメリカでもジャズ界のスーパースターでした。
しかし、彼は黒人です。
人種差別が根強く残っていたアメリカでは、当然のように差別されていたのです。
だから、日本の若者たちの熱烈な歓迎が信じられなかったのです。
タラップを降りると、ファンからの花束に埋もれ、スピーチを求められましたが、彼らは涙が止らなくてとてもそれどころではありませんでした。
さらに、ブレーキーさんを驚かせることがありした。
一人の若者が彼に近づいてこう言ったのです。
「ミスターブレーキー、お願いがあります。僕と一緒に記念写真を撮ってください」
彼は思わずこう言いました。
「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」
この時、ブレーキーさんは知ったのでした。
「この国の人たちは黒人を差別しない」と。
同じ人間を「肌が黒い」というだけで蔑(さげす)むような考えを持つ者など、この国には一人もいない。
この国の人たちは、本当に自分たちの演奏を聴きたがっている。
この国の人たちは、自分たちの演奏が大好きで、心から自分たちをリスペクト(尊敬)してくれる。
国籍も人種もまったく違う日本人がただただ自分たちの音楽を賞賛してくれている…。
出迎えた日本人にとって、アート・ブレーキーはジャズのスーパースターです。
純粋に彼を尊敬し、日本に来てくれたことに感謝し、歓迎しただけのことでした。
日本人にしてみたら、ごく当たり前ことです。
この当たり前のことが、黒人のブレーキーさんにとって涙が出るほど嬉しいことだったです。
そして、帰国する時に彼はこう述べました。
「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。
それは演奏を聴く態度はもちろん、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人として歓迎してくれたことだ。
ヒューマンビーイングとして!」
八百万(やおよろず)の神様のいる国、縄文の昔から大陸や海からやって来た人・物・文化を取り入れて共生してきた国だからこそ、我が国では肌の色や人種で差別するなどという意識は恥ずべきことでした。
ごく普通の当り前の事を当たり前のようにするのが日本なのです。
こうして、大の親日家になったブレイキーは、その後、日本女性を妻に迎えました。
息子に日本名をつけ、毎年のように来日して、本物のジャズを日本のファンに披露し続けたのです。
《資料おわり》
【発問4】
資料を読んで、感じたことや感心したことはなんですか。
また、今の自分の考えに照らしてどうですか。
『どんな人に対しても公平に接するということは、素晴らしいことです。
日本は、そういうことが当たり前の社会であったし、それがカッコいい生き方でもあります。
クラスや学年、先輩の中には、弱い立場の人に対して、乱暴な態度や口の利き方をしている人がいるでしょう。
それはカッコわるい生き方だし、自分の価値を下げています。
振り返って、自分は人によって態度を変えていないでしょうか…。
大切なことです。よくよく考えてください』
などという話をします。

《授業おわり》
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