道徳「大和心とポーランド魂」
2-(6)感謝の心
「大和心とポーランド魂~恩を忘れない」
国際社会の友情
『平成23年の夏休み、岩手県と宮城県の中・高校生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。
「絆の架け橋プログラム」と言います。
実は、その15年以上前の平成7(1995)年の夏休みにも、30名の日本の小・中学生がポーランドに招待されていました。
前者は東日本大震災、後者は阪神・淡路大震災で大きな痛手を受けた子供たちでした』
◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
どうしてポーランドの人々は、こんなに日本の子供たちをいたわってくれるのだと思いますか?
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
いつものことですが、…きっと何か秘話がある! と生徒は思っています。
『【資料1、2】を読みましょう』
【資料1】サムライの国・ヤポンスカ ■□■□■□■■□■□■□■
平成7(1995)年、両国の間を奔走してポーランドのワルシャワに日本の小中学生の被災児を招待したのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士である。
フィリペックさんの父親は、第2次世界大戦中、彼が3歳の時にドイツ占領下のポーランドでゲシュタポ(秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。
その後、彼はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。
「お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。
ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。
ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアの向こうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。
その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。
ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね。
サムライ魂を持っているんだ」
これがきっかけとなってフィリペックさんは日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。
【資料2】ポーランドの悲劇
なぜフィリペックさんは「神戸の小中学生被災児をポーランドに招待する」というボランティアに取り組んだのだろうか。
その背景には、大正時代における知られざる「日本-ポーランドの交流」の歴史が存在していたのである。
もともとポーランドは、東ヨーロッパの伝統的な王国だった。
ところが、1795年(寛政7年・江戸時代)にプロイセン・ロシア・オーストリアによって3分割され、ポーランドはすべての国土を失った。
そこでポーランドの愛国者たちは、地下に潜って独立運動を展開した。
しかし、そのたびに逮捕されて、家族もろとも流刑の地・ロシアのシベリアに次々と送られたのである。
祖国を失い、苛酷な環境に置かれたポーランド人。
苦難のはじまりであった。
流刑と言っても犯罪者ではない。
愛国者なのだ。
彼らはポーランドの心であるショパンの曲を胸に、独立の日を夢見ながら涙を流し、絶望の時を耐え続けていた。
この時から130年の歳月が流れ、世界を巻き込んだ第1次世界大戦が勃発した。
1919年(大正8年)、戦争が終結し、ヴェルサイユ条約によってようやくポーランドは独立できることになった。
それまで虐げられてきたポーランド人たちは喜びに湧いた。
シベリアに流刑にされたポーランド人は、10数万人。
彼らは長い間、肩を寄せあい、寒さと飢餓と伝染病と戦いながら生き抜いてきた。
最後の食べ物を子供に与えたあと、その子を抱いたまま息を引き取った母親も多かった。
こうして親を失った孤児たちの生活は極めて悲惨だった。
こんな状態だっただけに、どんなに待ちこがれた祖国の独立だったことだろう。
「やっと国に帰れるんだ!」
ところが、シベリアのポーランド人は祖国に帰れない事態になってしまった。
なぜなら、大戦中に起きたロシア革命で誕生したソ連が、ポーランドと戦争を始めたからである(1920年春)。
そのため、唯一の帰国ルートであったシベリア鉄道が利用できなくなってしまったのだ!
ロシアのウラジオストックに住むポーランド人によって結成された「ポーランド救済委員会」が、かわいそうな孤児たちを救おうとしたが、なかなか救援活動は進まなかった。
そこで、救済委員会はヨーロッパやアメリカの政府に救援を依頼した。
しかし、シベリアのポーランド人は再び絶望に陥った。
なぜなら、欧米諸国は彼らの救援要請をことごとく拒否してきたからである。
飢餓と伝染病に苦しむ孤児たちの命は、最大の危機に直面していた…。
(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
◆ 発問2 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
ポーランド孤児たちは、この後どうなったと思いますか?
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
『【資料3】で確認しましょう』
【資料3】ポーランド孤児を救出せよ! ■□■□■□■□■□■□■□
欧米諸国が、ことごとくポーランドの要請を拒否するなか、
「よし、手を貸そう!」
と名乗り出た国が唯一存在した。
それが日本だった。
日本赤十字社とシベリアに出兵中の陸軍兵士たちが、機敏な行動をおこした。
孤児の一人で、日本に助けられたダニレビッチ氏は当時の状況をこう語っている。
「街には、飢えた子供があふれていましたね。
その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』と、せがむのです。
日本のヘイタイサンは、やさしかった。
わたしも、キャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹をまぎらわそうと、雪を食べている子供もいました。
シベリアはもう、まったくの地獄でした」
事態は一刻の猶予もなかった。
日本赤十字社と日本陸軍の兵士らは、酷寒のシベリアの地に入って行って
「せめて親を亡くした孤児だけでも助けよう」と
悪戦苦闘した。
救出した孤児たちを保護しながらウラジオストックまで行き、そこから東京と大阪に船で次々と送り出した。
なんと、日本政府が救済の決定をした2週間後には、56名の孤児を東京の宿舎まで届けている。
鮮やかな救出劇だった。
日本は、以後3年間で合計765名の孤児たちを救い続けたのである。
しかし、孤児たちは飢餓と重い伝染病で衰弱しきっていた。
大量の孤児を受け入れた日本国内の施設では、看護婦が付きっきりの看護に当たった。
ほとんどの孤児たちは、ここで初めて大人の優しさに触れたという。
もはや手遅れと思われた腸チフスの少女の看護にあたった21歳の看護婦・松沢フミは
「死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」
と毎晩少女のベッドで添い寝をした。
その甲斐あって、少女は奇跡的に命をとりとめたのである。
しかし、その様子を見届けた松沢看護婦は亡くなった。
腸チフスに感染したのである。
みずからの命を捧げてまでも異国の不遇な子供に尽くしたのだ。

『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』という本には、ポーランド在住の松本照男氏の証言が紹介されている。
<日本に収容されたポーランド孤児たちは、日本国民朝野を挙げて多大の関心と同情をよんだ。
慰問の品を持ち寄る人々。
無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち。
学生が音楽会の慰問に訪れ、婦人会や慈善協会は子供たちを慰安会に招待した。
寄付金を申し出る人はあとを絶たなかった。
1921年4月6日には皇后陛下(貞明皇后)も日赤本社病院を訪問され、孤児らと親しく接見された。
貞明皇后は3歳の女の子を召されて、その頭をいくども撫でながら、健やかに育つようにと、お言葉を賜れた。>

こうした献身的な看護によって、子供たちは次第に健康を取り戻していった。
そこで、回復した子供から順次、8回に分けて祖国ポーランドに送り届けることになった。
横浜港から出航する時、幼い孤児たちは泣いて乗船するのを嫌がった。
なぜだろうか?
親身に世話をしてくれた日本人は、孤児たちにとって、すでに父となり母となっていたのだ。
孤児たちは泣きながらも、見送る日本人に「アリガトウ」を繰り返した。
そして、滞在中に習い覚えたのであろう、なんと日本の国歌「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したのである。

子供たちをポーランドに送り届けた日本人船長は、毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとりの毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
「その手の温かさを忘れない」と一人の孤児は回想している。
(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
◆ 発問3 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
【資料3】を読んで、
感じたことや感心したことを書いて下さい。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
『命を救われたポーランド孤児たちは、どんなに感謝したでしょうか。
当時の日本人の人道的な優しさに感心しますね』
(それにしても当時の国際社会のレベルはどう? ちなみに日本の国是は「八紘一宇」でした)
『【資料4】を読みましょう』
【資料4】日本のみなさん、ありがとう ■□■□■□■□■□■□■□■
日本人のこうした崇高な行為に対して、フィリペック博士は
「ポーランド人として、いつかこの恩返しをしたい」
と考え続けていた。
大正時代のポーランド孤児救済活動から75年目を迎えた平成7(1995)年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。
ポーランド政府は、ただちに日本への救援活動を開始した。
その後、日本の被災児をポーランドに招いて激励してくれたのである。
そう、その背景には、大正時代に孤児を救った日本人に対する感謝の気持ちが込められていたのである。
ポーランド極東委員会副会長だったヤクブヴィッチ氏の
『ポーランド国民の感激、われら日本の恩を忘れない』と
題した手紙がある。
ここには次のような感謝の言葉が綴られている。
「日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてこの恩を忘れることはない。
我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の悲惨なのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までも取って、ポーランドの子供たちに与えようとした。
こんなことは一度二度ではない。しばしばあった。
ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい 」
そして、震災4年後の平成11(1999)年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団は、88歳の老婦人ヘンリク・サドフスキさんからの次のようなメッセージを持参してきていた。
「 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。
合唱団は私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
日本のみなさん、ありがとう 」
さらに、サドフスキさんは
「一番大事にしている物を皇室に渡してほしい」
と75年間、大切に持ち続けていた当時の写真を託していた。
この時、
「孤児収容所を慰問した皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」
と言い、
「遠い思い出の中に、孤児だった自分たちを心から慈しんでくれた母のごとき貞明皇后が、今も鮮やかに目に浮かぶ」
と話したという。
『毎日新聞』平成11年8月4日

(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
『大正の日本人は孤児を一人も死なせませんでした。
これが、阪神淡路そして東日本大震災で、ポーランドから惜しみない援助が贈られた理由です。
名も無き庶民にまで高貴な精神が息づいていた大正時代の日本でした。
ヤクブケヴイッチさんが言ったように、現代日本の私たちもポーランド人や大正の日本人のように
「高尚な国民」
でありたいですね』
◆ 発問4 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
「高尚な国民」とはどのようなものか、
自分を振り返って感じたことを書きましょう。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
●今の中学生に「高尚」という言葉は難しかったようである。
高尚とは「品性が気高くて、立派なこと」。
その反対が「低俗」。
と示した。
●何の見返りも求めずに最善を尽くした大正日本人の偉さに感動する。
また、
受けた恩を忘れず、当然のことのように恩返しをするポーランド人の偉さにも感動する。
ともに「高尚な国民」である。
●こういう素晴らしい事実を、今の日本人の多くが知らないことが問題ではないかと強く思う次第である。
●生徒には、今の自分を振り返って、
「気品ある優しさはあるだろうか」「そんな人になれるだろうか」
と考えてもらいたい。


(終わり)
「大和心とポーランド魂~恩を忘れない」
国際社会の友情
『平成23年の夏休み、岩手県と宮城県の中・高校生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。
「絆の架け橋プログラム」と言います。
実は、その15年以上前の平成7(1995)年の夏休みにも、30名の日本の小・中学生がポーランドに招待されていました。
前者は東日本大震災、後者は阪神・淡路大震災で大きな痛手を受けた子供たちでした』
◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
どうしてポーランドの人々は、こんなに日本の子供たちをいたわってくれるのだと思いますか?
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
いつものことですが、…きっと何か秘話がある! と生徒は思っています。
『【資料1、2】を読みましょう』
【資料1】サムライの国・ヤポンスカ ■□■□■□■■□■□■□■
平成7(1995)年、両国の間を奔走してポーランドのワルシャワに日本の小中学生の被災児を招待したのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士である。
フィリペックさんの父親は、第2次世界大戦中、彼が3歳の時にドイツ占領下のポーランドでゲシュタポ(秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。
その後、彼はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。
「お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。
ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。
ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアの向こうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。
その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。
ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね。
サムライ魂を持っているんだ」
これがきっかけとなってフィリペックさんは日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。
【資料2】ポーランドの悲劇
なぜフィリペックさんは「神戸の小中学生被災児をポーランドに招待する」というボランティアに取り組んだのだろうか。
その背景には、大正時代における知られざる「日本-ポーランドの交流」の歴史が存在していたのである。
もともとポーランドは、東ヨーロッパの伝統的な王国だった。
ところが、1795年(寛政7年・江戸時代)にプロイセン・ロシア・オーストリアによって3分割され、ポーランドはすべての国土を失った。
そこでポーランドの愛国者たちは、地下に潜って独立運動を展開した。
しかし、そのたびに逮捕されて、家族もろとも流刑の地・ロシアのシベリアに次々と送られたのである。
祖国を失い、苛酷な環境に置かれたポーランド人。
苦難のはじまりであった。
流刑と言っても犯罪者ではない。
愛国者なのだ。
彼らはポーランドの心であるショパンの曲を胸に、独立の日を夢見ながら涙を流し、絶望の時を耐え続けていた。
この時から130年の歳月が流れ、世界を巻き込んだ第1次世界大戦が勃発した。
1919年(大正8年)、戦争が終結し、ヴェルサイユ条約によってようやくポーランドは独立できることになった。
それまで虐げられてきたポーランド人たちは喜びに湧いた。
シベリアに流刑にされたポーランド人は、10数万人。
彼らは長い間、肩を寄せあい、寒さと飢餓と伝染病と戦いながら生き抜いてきた。
最後の食べ物を子供に与えたあと、その子を抱いたまま息を引き取った母親も多かった。
こうして親を失った孤児たちの生活は極めて悲惨だった。
こんな状態だっただけに、どんなに待ちこがれた祖国の独立だったことだろう。
「やっと国に帰れるんだ!」
ところが、シベリアのポーランド人は祖国に帰れない事態になってしまった。
なぜなら、大戦中に起きたロシア革命で誕生したソ連が、ポーランドと戦争を始めたからである(1920年春)。
そのため、唯一の帰国ルートであったシベリア鉄道が利用できなくなってしまったのだ!
ロシアのウラジオストックに住むポーランド人によって結成された「ポーランド救済委員会」が、かわいそうな孤児たちを救おうとしたが、なかなか救援活動は進まなかった。
そこで、救済委員会はヨーロッパやアメリカの政府に救援を依頼した。
しかし、シベリアのポーランド人は再び絶望に陥った。
なぜなら、欧米諸国は彼らの救援要請をことごとく拒否してきたからである。
飢餓と伝染病に苦しむ孤児たちの命は、最大の危機に直面していた…。
(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
◆ 発問2 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
ポーランド孤児たちは、この後どうなったと思いますか?
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
『【資料3】で確認しましょう』
【資料3】ポーランド孤児を救出せよ! ■□■□■□■□■□■□■□
欧米諸国が、ことごとくポーランドの要請を拒否するなか、
「よし、手を貸そう!」
と名乗り出た国が唯一存在した。
それが日本だった。
日本赤十字社とシベリアに出兵中の陸軍兵士たちが、機敏な行動をおこした。
孤児の一人で、日本に助けられたダニレビッチ氏は当時の状況をこう語っている。
「街には、飢えた子供があふれていましたね。
その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』と、せがむのです。
日本のヘイタイサンは、やさしかった。
わたしも、キャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹をまぎらわそうと、雪を食べている子供もいました。
シベリアはもう、まったくの地獄でした」
事態は一刻の猶予もなかった。
日本赤十字社と日本陸軍の兵士らは、酷寒のシベリアの地に入って行って
「せめて親を亡くした孤児だけでも助けよう」と
悪戦苦闘した。
救出した孤児たちを保護しながらウラジオストックまで行き、そこから東京と大阪に船で次々と送り出した。
なんと、日本政府が救済の決定をした2週間後には、56名の孤児を東京の宿舎まで届けている。
鮮やかな救出劇だった。
日本は、以後3年間で合計765名の孤児たちを救い続けたのである。
しかし、孤児たちは飢餓と重い伝染病で衰弱しきっていた。
大量の孤児を受け入れた日本国内の施設では、看護婦が付きっきりの看護に当たった。
ほとんどの孤児たちは、ここで初めて大人の優しさに触れたという。
もはや手遅れと思われた腸チフスの少女の看護にあたった21歳の看護婦・松沢フミは
「死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」
と毎晩少女のベッドで添い寝をした。
その甲斐あって、少女は奇跡的に命をとりとめたのである。
しかし、その様子を見届けた松沢看護婦は亡くなった。
腸チフスに感染したのである。
みずからの命を捧げてまでも異国の不遇な子供に尽くしたのだ。

『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』という本には、ポーランド在住の松本照男氏の証言が紹介されている。
<日本に収容されたポーランド孤児たちは、日本国民朝野を挙げて多大の関心と同情をよんだ。
慰問の品を持ち寄る人々。
無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち。
学生が音楽会の慰問に訪れ、婦人会や慈善協会は子供たちを慰安会に招待した。
寄付金を申し出る人はあとを絶たなかった。
1921年4月6日には皇后陛下(貞明皇后)も日赤本社病院を訪問され、孤児らと親しく接見された。
貞明皇后は3歳の女の子を召されて、その頭をいくども撫でながら、健やかに育つようにと、お言葉を賜れた。>

こうした献身的な看護によって、子供たちは次第に健康を取り戻していった。
そこで、回復した子供から順次、8回に分けて祖国ポーランドに送り届けることになった。
横浜港から出航する時、幼い孤児たちは泣いて乗船するのを嫌がった。
なぜだろうか?
親身に世話をしてくれた日本人は、孤児たちにとって、すでに父となり母となっていたのだ。
孤児たちは泣きながらも、見送る日本人に「アリガトウ」を繰り返した。
そして、滞在中に習い覚えたのであろう、なんと日本の国歌「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したのである。

子供たちをポーランドに送り届けた日本人船長は、毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとりの毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
「その手の温かさを忘れない」と一人の孤児は回想している。
(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
◆ 発問3 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
【資料3】を読んで、
感じたことや感心したことを書いて下さい。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
『命を救われたポーランド孤児たちは、どんなに感謝したでしょうか。
当時の日本人の人道的な優しさに感心しますね』
(それにしても当時の国際社会のレベルはどう? ちなみに日本の国是は「八紘一宇」でした)
『【資料4】を読みましょう』
【資料4】日本のみなさん、ありがとう ■□■□■□■□■□■□■□■
日本人のこうした崇高な行為に対して、フィリペック博士は
「ポーランド人として、いつかこの恩返しをしたい」
と考え続けていた。
大正時代のポーランド孤児救済活動から75年目を迎えた平成7(1995)年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。
ポーランド政府は、ただちに日本への救援活動を開始した。
その後、日本の被災児をポーランドに招いて激励してくれたのである。
そう、その背景には、大正時代に孤児を救った日本人に対する感謝の気持ちが込められていたのである。
ポーランド極東委員会副会長だったヤクブヴィッチ氏の
『ポーランド国民の感激、われら日本の恩を忘れない』と
題した手紙がある。
ここには次のような感謝の言葉が綴られている。
「日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてこの恩を忘れることはない。
我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の悲惨なのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までも取って、ポーランドの子供たちに与えようとした。
こんなことは一度二度ではない。しばしばあった。
ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい 」
そして、震災4年後の平成11(1999)年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団は、88歳の老婦人ヘンリク・サドフスキさんからの次のようなメッセージを持参してきていた。
「 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。
合唱団は私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
日本のみなさん、ありがとう 」
さらに、サドフスキさんは
「一番大事にしている物を皇室に渡してほしい」
と75年間、大切に持ち続けていた当時の写真を託していた。
この時、
「孤児収容所を慰問した皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」
と言い、
「遠い思い出の中に、孤児だった自分たちを心から慈しんでくれた母のごとき貞明皇后が、今も鮮やかに目に浮かぶ」
と話したという。
『毎日新聞』平成11年8月4日

(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
『大正の日本人は孤児を一人も死なせませんでした。
これが、阪神淡路そして東日本大震災で、ポーランドから惜しみない援助が贈られた理由です。
名も無き庶民にまで高貴な精神が息づいていた大正時代の日本でした。
ヤクブケヴイッチさんが言ったように、現代日本の私たちもポーランド人や大正の日本人のように
「高尚な国民」
でありたいですね』
◆ 発問4 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
「高尚な国民」とはどのようなものか、
自分を振り返って感じたことを書きましょう。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
●今の中学生に「高尚」という言葉は難しかったようである。
高尚とは「品性が気高くて、立派なこと」。
その反対が「低俗」。
と示した。
●何の見返りも求めずに最善を尽くした大正日本人の偉さに感動する。
また、
受けた恩を忘れず、当然のことのように恩返しをするポーランド人の偉さにも感動する。
ともに「高尚な国民」である。
●こういう素晴らしい事実を、今の日本人の多くが知らないことが問題ではないかと強く思う次第である。
●生徒には、今の自分を振り返って、
「気品ある優しさはあるだろうか」「そんな人になれるだろうか」
と考えてもらいたい。


(終わり)
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