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野口英世と母シカ~道徳「親子の情と高い志」

野口
「月刊プリンシパル」(学事出版)2017年2月号に連載したものです。

 黄熱病などの研究で第一回ノーベル賞候補になり、今や千円札の肖像になっている野口英世は中学生にもなじみがある人物でしょう。
英世は明治九(一八七六)年十一月九日、福島県猪苗代町の貧しい農家に生れました。
一歳の時、囲炉裏で左手に大火傷を負いますが、貧乏だったためろくな治療ができませんでした。
母シカの祈りもむなしく、英世の左手は握ったまま固まってしまいました。
シカは自分を責め、
「どんなことがあっても、私がこの子を一生養っていく」
と決意したといいます。

■志を得ざれば 再び此(この)地を踏まず
 英世は、幼い時から左手の障碍をバカにされ、いじめられていました。
小学三年生の時です。
英世は朝、家を出たものの学校をさぼってしまいました。
それを知ったシカは言いました。
「お前は手が使えなくても、頭ならいくらでも使える。
いじめられて悔しかったら、うんと勉強して見返してやればいい。
辛抱して学校に行っておくれ。母さんも今まで以上に頑張るから」。
 大酒飲みであまり働かない父に代って、朝から晩まで働いていた母の言葉だけに
「母さん、ごめん。明日から学校に行くよ」
と英世は応えました。

 シカは、百姓にはなれない英世を学問で身を立てさせようと考えました。
進学にはもっと収入が必要です。
シカは重い荷物を背負って二十~三十キロの山道を運搬する仕事をしながら、いじめられる英世を励まし続けました。
英世は「誰にも負けない人間になろう」と決意し、トップの成績を取るようになります。
頑張る英世のために、小林栄先生が始めた募金のおかげで、英世は手術を受けて左手が開閉できるようになったのです(開いても生涯小さなままでしたが)。
この時の感激によって英世は医学の道を志し、進学後も夜遅くまでかまどの火をたよりに勉強しました。
そして十九歳で上京することになった英世は「志を得ざれば 再び此地を踏まず」と家の柱に刻みました。
英世の決意の強さが伝わります。
こうして、英世は二十歳で医師免許を取得します。
これは驚異的なことでした。より多くの人々を救いたいと考えた英世は、細菌の研究に取り組みました。
世界的に有名な北里柴三郎の伝染病研究所に勤め、ペスト菌の発見などで功績を上げました。

 一九〇四年、二四歳の英世はニューヨークのロックフェラー研究所に迎えられ、蛇の毒や黄熱病の研究に没頭します。
その猛烈ぶりから「日本人はいつ寝るのだ?」と同僚に言われたそうです。
この頃、英世は研究所で知り合ったメアリーと結婚しています。
努力が実り、やがて英世はヨーロッパ各地から講演に招かれるようになりました。

志を得ざれば再び2 野口英世

■世界の野口に届いた母の手紙 

しかの手紙
「野口シカの手紙」野口英世記念館所蔵

 アメリカに渡って十有余年、すでに「世界の野口」と言われるようになった英世の元に、会津のシカから一通の手紙が届きました。
シカは字が書けませんでした。
しかし、息子会いたさに囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら手紙を書いたのです。
 『おまイの○しせには○みなたまけました○わたくしもよろこんでをりまする○なかたのかんのんさまに○さまにねん○よこもりを○いたしました
(お前の出世には皆たまげました。私も喜んでおります。毎年、中田の観音様に夜籠りをしました)』
『わたしも○こころぼそくありまする○ドカはやく○きてくだされ
(私も心細いです。どうか早く帰って来てください)』
『はやくきてくたされ○はやくきてくたされ はやくきてくたされ○はやくきてくたされ○いしよのたのみて○ありまする にしさむいてわ○おかみ○ひかしさむいてわおかみ○しております
(早く来てください。早く来てください。早く来てください。早く来てください。一生の頼みです。西に向いては拝み、東に向いては拝んでおります)』
『さしんおみるト○いただいておりまする○はやくきてくたされ○いつくるトおせてくたされ○これのへんちちまちてをりまする○ねてもねむられません
(写真を見ると拝んでいます。早く帰って来てください。いつ来るか教えてください。返事を待っています。寝ても眠られません)』
(以上、抜粋)
 子供のような文字とたどたどしい言葉から、会えない子供に対する愛情が伝わります。
シカは、一生消えないやけどを英世に負わせたことで生涯自分を責め、子供の無事だけを願って生きてきました。
母親とは、いつまでも子供のことを忘れないのですね。

■一に母の愛に負う 
母の手紙が届いて間もない大正三年(一九一五)、英世は帰国し、十五年ぶりにシカと再会します。
英世は講演をしながら、シカを連れて東京や伊勢神宮など各地をまわりました。
英世の親孝行ぶりは、周囲の人々に深い感銘を与えたといいます。
シカは「これで思い残すことはねえ」とご満悦でした。
その三年後、シカは六五歳で亡くなりました。
 三八歳の英世は次の言葉を残しています。
 「私の過去において、最も私を心配し、最も奮起させたのは母上です。
将来における私の光明と勇気も一に母の愛に負うものです」。
 英世の人生を支えたものが「母の我が子に対する愛情」だったことがわかります。

 その後の英世はアフリカに渡り、黄熱病の研究と治療にあたりました。
黄熱病は蚊が媒介する伝染病で、熱帯アフリカ・中南米の風土病です。
突然の発熱と頭痛で、鼻や歯ぐきから出血し、体が黄色く変色して死亡するという恐ろしい病気です。
 一九二八年、英世はアフリカのガーナで研究中、その黄熱病にかかって亡くなりました。
まだ、五一歳でした。
ガーナには、英世を讃える銅像と資料館が建てられています。
英世の墓はメアリー夫人の祖国アメリカのニューヨークにあります。
その墓には次のような言葉が刻まれています。
「博士は科学への献身により、人類のために生き、人類のために死せり」。
英世は今でも世界の人々から尊敬を集めています。

 日頃、英世は次の三つの言葉を座右の銘にしていました。
それは「忍耐」「努力」「勉強」です。

 また、
「天才なんてあるものか! あるのは努力だけだ! 誰よりも三倍、四倍、五倍努力勉強する者、それが天才なのだ!」
という言葉も残しています。
英世があのような立派な人生を歩めた理由がわかるような気がしますね。
最後に、英世の人生観をよく表している言葉を紹介しましょう。

 「この世の中にて、最も尊きものは慈愛の徳です。人の一生は三日生きても、百歳生きても同じもの」。

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〈おわり〉
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日本・ポーランド秘話~道徳「感謝の心」

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日本マラソンの父・金栗四三 三度のオリンピック 努力を続ける (2)

(続きです)

帰国した金栗は4年後のベルリン大会を目標に練習に励み、国内大会で2度も世界新記録を出します。
誰もが今度こそ金メダルと期待しましたが、第一次大戦が勃発し、五輪自体が中止になりました。

次のアントワープ大会(1920年)に出場するも寒さによる足の痙攣で無念の16位。
パリ大会(1924年)では金栗すでに33歳、途中棄権を余儀なくされました。
結局、金栗はストックホルムのリベンジを果たせず、「悲運のアスリート」と呼ばれるようになりました。


金栗 三度目の出場パリ大会スキャン0003

現役を引退した金栗は選手の育成と競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習法を取り入れました。
そして「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」と、金栗は箱根駅伝を企画します。
互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めようとしたのです。
現在の強い日本マラソン界につながる試みのほとんどは金栗の発案です。
一方、その誠実で温厚な人柄から後輩たちに「お釈迦様」と呼ばれて慕われました。


◆55年後のゴール

 現役時代から換算すると金栗の全走行距離は25万キロ。地球6周以上です。
世界のマラソン界でも金栗の名は知れ渡り、いつしか「日本マラソンの父」と呼ばれるようになっていました。
ストックホルムでの途中棄権から50年余り過ぎた昭和42(1967)年、75歳の金栗にストックホルム五輪55周年記念式典の招待状が届きます。
「あなたはマラソン競技で、まだゴールをされていません。あなたがゴールするのをお待ちしております」
と書いてありました。
実はあの時、日本チームは棄権届けを出していなかったので、金栗は行方不明者のままだったのです。

金栗は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
なんと、そこには一本のゴールテープが用意されていました。
観客の拍手の中、金栗は走ってテープを切りました。

「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これでストックホルム大会は全日程を終了しました」


とアナウンスが流れました。
観客たちは20歳でスタートし、75歳でゴールした金栗をたたえました。
これに応えて「長い道のりでした。この間に孫が五人できました」
との金栗のコメントに観客は大喜びです。

日本の金栗が只今ゴール。タイムは54年8か月6日5時間32分20秒3…
■半世紀ぶりに思い出のスタジアムでゴールテープを切る金栗四三

昭和59(1984)年11月13日、金栗は93歳で天寿を全うしました。
数々の挫折を乗り越えた金栗の不屈の精神を知った生徒は
「私が落ち込んだことなんて本当に小さいことだと思った。頑張っていこう」
と感想を述べました。
今の子供たちは、私たちの子供時代とは比べようもないほど煩雑で慌ただしい社会を生きています。
情報化やグローバル化に伴う落とし穴も多いです。
将来にわたって必ず失敗や挫折はあります。
それを乗り越える気力を育むことも学校の大切な使命です。
強い意志を持って努力を続けることの尊さを教えていきたいですね。

kanakuri411金栗四三

■晩年の金栗四三


ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板Commemorative_plaque_of_Shizo_Kanakuri_in_Sollentuna

■ストックホルム近郊のマラソンコース上にある町「ソレントゥナ」に設置された金栗四三を讃える記念銘板




(おわり)


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日本マラソンの父・金栗四三 三度のオリンピック 努力を続ける (1)

リオ五輪の興奮冷めやらぬ中、とっておきの五輪歴史秘話を紹介しましょう。

学事出版
校長講話の専門誌「月刊 プリンシパル」連載
「子どもに伝えたい道徳の心」連載第2回
「日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)
 三度のオリンピック」
努力を続ける (1)

より転載


***********************

 子供は小さな失敗を繰り返しながら成長していくものです。
最近の子はひ弱になったのか、少しばかりのダメージでやる気を失ってしまったり、そもそも失敗を恐れてチャレンジすることすらためらう子供も見受けられます。
昨年、道徳の時間で「挫折して落ち込んだことがあるか」と発問したところ、34名中、22名もいました。そこで、挫折に立ち向かい、努力を続けることの偉大さを教えるために、金栗四三の話をしました。

◆オリンピック日本人選手第一号 

正月の恒例行事のひとつに箱根駅伝があります。
この提唱者が金栗四三です。
箱根駅伝では、最優秀選手に「金栗杯」が贈呈されます。

金栗は日本人で初めてオリンピックに出場した人です。それは1912年、スウェーデンのストックホルム大会でした。
日本代表はたったの二人。金栗はマラソンの代表選手でした。
その前年、五輪国内予選として日本初の公式マラソンが開催されました。日本マラソンの始まりは劇的でした。
金栗は雨風をものともせず、2時間32分45秒のタイムで優勝。なんと当時の世界記録を27分も縮めたのです。
この時、金栗20歳。五輪選手第1号として出場が決定しました。

金栗は明治24(1891)年8月20日、熊本県の造り酒屋に生まれました。
小学校時代は往復12キロの道のりを走って通学しました。
中学校時代は特待生に推薦されるほどの秀才で、スポーツの経験はなかったそうです。
東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した金栗は陸上競技部に入部し、人の何倍もの努力を積み重ねて才能を開花させました。

さて、ストックホルムに着くと、五輪委員会から「国名標示はどうするか」との問い合わせです。
金栗が
「漢字で『日本』とすべきです」と提案。
「それでは外国人には読めない。JAPANに」と国際通の監督。
金栗は
「それは外国人がつけた名前です。『日本』という本当の呼び名を使い、世界の人々に知らせましょう。JAPANならプラカードを持つのをやめます」
と譲りません。
困ったみんなが一斉に団長の嘉納治五郎の顔を見ます。
「どちらも一理ある。発音はニッポン、標記はローマ字。つまりNIPPONでどうか」。
この調停に一件落着しました。
このエピソードは、金栗が母国日本のために戦う強い決意をよく表しています。

五輪に初参加

オリンピック最終日、マラソン競技がスタートしました。
しかし、当日は40度近い炎天下で、参加選手68人中、完走は37人。
死者まで出るデッドレースでした。
日本の期待を一身に背負った金栗も、慣れない洋食や白夜による睡眠不足がたたり、25キロを過ぎた辺りで意識不明になりました。近くの農家に助けられ、目覚めた時は翌朝になっていました。
競技中に姿を消したので「日本人選手が行方不明」と新聞にまで載ってしまいました。
金栗はあふれる涙をぬぐいながら日記に記しました。

《大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重任を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん

オリンピック国内予選会優勝記念


(つづく)
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「エルトゥールル号事件」感謝の心 「プリンシパル」連載1-2

学事出版
校長講話の専門誌「月刊 プリンシパル」連載
「子どもに伝えたい道徳の心」
連載第1回「エルトゥールル号事件」感謝の心《つづき》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆ つづき


「エルトゥールル号事件」感謝の心


◆エルトゥールル号事件
話は遠く明治二三年のこと、トルコの使節団が軍艦エルトゥールル号で日本を親善訪問しました。
九月一四日、トルコに戻るため横浜を出港。
しかし、不幸にも台風が直撃し、使節団六六〇名を乗せたまま、和歌山県大島付近で沈没してしまったのです。

 それはもうたいへん悲惨な有り様でした。
深夜で暴風雨でしたが、事態を知った大島の島民たちはひるむことなく救助に立ち向かいました。
  暴風雨で火もおこせず、島民はトルコ人を腕に抱いて温め、介抱したといいます。
村人たちは台風で漁ができず、自分たちの食べ物さえ無くなってしまう状況だったにもかかわらず、非常用に飼っていた鶏まで、トルコ人に食べさせました。

この懸命な努力により六九名のトルコ人の命が救われました。
その後、島民百数十人の懸命な捜索により二一九名の遺体を収容しましたが、残り三六二名はついに発見できませんでした。
発見された遺体は、島民たちによって丁重に埋葬されました。

 明治天皇はただちに医師団を派遣し、生存者全員をトルコに送還させました。
 また、日本全国から義援金が寄せられ、トルコの遺族に届けられました。
この義援金を届けたのが、山田寅次郎という人です。
寅次郎はトルコ側の要請で、そのまま留まり、日本語を教えながら日本とトルコの友好親善に尽くしています。
この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・パシャもいました。



◆百年前の恩を忘れない
 遭難現場の串本町南紀大島の岬と地中海に臨むトルコ南岸の両方に、慰霊碑が建っています。
串本町では、五年毎に駐日トルコ大使館との共催でエルトゥールル号の「殉難将士慰霊祭」が行われています。


トルコ軍艦遭難慰霊碑


トルコ航空機による日本人救出劇について駐日トルコ大使だったウトカン氏は次のように述べています。
 「悲劇ではありましたが、エルトゥールル号事件は日本との民間レベルの友好関係の始まりでもあります。
エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、トルコでは子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事です。
エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコ人たちは忘れていません。
それで、テヘランで困っている日本人助けようとトルコ航空機が飛んだのです」。


 私たちの先人が成し遂げた命懸けの行為が、百年の歳月をこえて同胞を救ったのです。


トルコ 日本の皆さんありがとう
     ↑ トルコとの絆は今も


◆感謝の心を素直に表現することの大切さ
 
皆さんの学校の児童生徒は、他人からの善意に対して感謝の気持ちを素直に表現したり、恩返しをしているでしょうか。
人間社会は互いに助け合い、協力し合って成立しています。
これを根底で支えているのが感謝の心でしょう。
親しい仲であろうとなかろうと、感謝の心を忘れずに、心の絆を紡いでいこうとする道徳的実践力を育てることが必要です。
 道徳教育で、善行を促すことは当然のことなのですが、その前に感謝の心を教えるべきでしょう。
物質万能の御時世ゆえ、単に善行を促しただけでは、児童生徒は「見返り」を得るために善行を行うことになりかねないからです。
したがって、今の自分は多くの人に支えられて生きているということに気付かせ、感謝の気持ちを持つように教えることが大切だと思います。
日常のさまざまな場面で、国や地域社会、あらゆる人に恩返しをしていこうという感謝の心を持って、行動するように指導したいですね。


《おわり》

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服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
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