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ロシア革命の指導者レーニン

【ロシア革命~ソ連の成立】
革命の指導者レーニン


02ウラジミール・レーニンLenin4

第一次大戦の最中、1917年2月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の女性労働者の始めた「パンよこせデモ」がきっかけで、大規模なストが起こりました。
これに反乱軍が加わり、監獄を解放し、兵器工場を襲いました。
労働者や反乱軍によって臨時政府が成立し、皇帝ニコライ2世は退位させられます。
ここに、300年続いたロマノフ王朝が終わりました。これを2月革命といいます。

このニュースをレーニンは亡命先のスイスで聞きました。46歳の時でした。
彼は共産主義(社会主義)のリーダーとして、国外から、ロシア社会民主労働党の左派「ボルシェビキ」を指導していたのです。
ただちに帰国したレーニンは、
「戦争停止・即時和平」
「全権力をソビエト(会議という意味)へ」
のスローガンを主張。これでソビエト内で少数派だったボルシェビキは、戦地に行きたくない兵士や労働者らの支持を得ました。

そして、10月。ボルシェビキ派の兵士らが政府のある宮殿に突入し、閣僚を逮捕して権力の奪取に成功します。
レーニンは、これをもって「プロレタリアート(労働者)の名のもとに権力奪取が行なわれた」と宣言しました。
10月革命です。
以来70年以上続く労働者階級の名を借りた「独裁」が始まりました。

レーニンは次々とライバルの政党を非合法化し、弾圧していきます。
また町では、武装兵士や農民がソビエトの名で商店・民家から食料や衣料品を略奪していきました。
10月革命の後、多くのコサック(シベリアの騎馬民族集団)が「白衛軍(反革命の軍)」に参加して、レーニンら革命政権の「赤軍(共産軍・赤旗を持っている)」と戦うことになりました。
この時、追いつめられた白衛軍兵士をかくまった住民たち数万人が、赤軍に虐殺されました。
レーニンは反革命の動きに対して冷酷でした。

共産主義勢力の拡大を嫌った米英ら連合国側の武力干渉が始まりました。
赤軍指導者の一人トロツキーは「敵前逃亡は容赦なく射殺する」と命じ、実行しました。
味方の部隊の退路を背後から銃でふさいだのです。
レーニンはこれを「絶対に正しいことだ」と支持しました。
なぜなら、党と指導者の命令に絶対服従することは、共産主義の掟(おきて)だからです。
そして、この掟を守らせる方法が「テロ」と「粛清(相手を抹殺して排除すること)」でした。
これこそが「革命」を遂行するボルシェビキの最大の武器だったのです。

ソビエト連邦(ソ連)共産党の秘密文書となっていたレーニンの命令書を読むと、それが裏付けられます。
例えば、白衛軍がペトログラードに迫った時、自国の労働者2万人と資本家1万人を人間の盾とし、後から機関銃で追い立てて突撃しようとしました。
食料の徴発では、
「陰謀したり、迷っている者を銃撃せよ。誰の許可もいらない。のろまなことはやめよ」
「2、30人の金持ちを人質とし、穀物の供出に自分の生命で責任をとらせよ」等々…、
革命と内戦により国中が大飢饉に見舞われていた時にもかかわらず、冷酷な命令を数多く出しています。
レーニンは共産党の独裁を確立する最大の障害であった教会に対しても徹底した弾圧で臨みました。
彼は教会の財産没収に反対する聖職者や信徒の農民らを見せしめのために処刑し続けました。
「聖ニコライの祭日」に仕事を休んだというだけで労働者を銃殺しました。

レーニンは1918年8月、「赤色テロ」宣言をして、反対派への徹底した攻撃を開始しました。
「粛清」による反対意見の完全封殺です。
反乱者に対しては、その場で何千人でも銃殺で処理し、農民に対してさえ毒ガスを使用しました。
余りに安易に「粛清」を行なった例として、次のようなエピソードがあります。
秘密警察の長官ジェルジンスキーが、ある会議の時にレーニンから紙を回されて「監獄にはどのくらい悪質な反革命家がいるか?」と尋ねられました。
ジェルジンスキーはその紙に「約1500人」と書いて返したのです。
すると、レーニンはそのメモに×印をつけて返してよこしました。
実はレーニンは日頃の習慣で、自分が書類を見終ったら、そのしるしとして×のサインをつけるクセがあったのです。
しかしジェルジンスキーは、こいつらをやってしまえというレーニンの処刑命令だと思い込んで、一晩のうちに1500人の政治犯を射殺してしまいました。
こうした虐殺について、非常時だからやむをえなかったと擁護(ようご)する学者がいますが、どうでしょうか。
その後のソ連の歴史を見ると、内戦終結後も「テロ」と「粛清」はずっと続いています。
「テロ」と「粛清」こそ、自己を絶対化するというソ連共産党の本質に根差す性格だったといえるでしょう。

レーニンは「誰でもいいから100人殺せ」とか「1000人殺せ」とか区切りのいい数で指示しています。
どうやら彼は誰が殺されるのか、殺される人物に罪があるのかどうかということにまるで関心がなかったようです。
レーニンにとって殺すべき相手は「数の大小」だったのです。
今でもシベリアでは凍結した川が春になって川岸の土を削ると、折り重なった無数の遺骨が姿を現わすそうです。
こうしたレーニンのやり方は、後継者のスターリンに、忠実に受け継がれていき、より強化されました。

ソ連の体制は、レーニンから一貫して
①議会を形だけのものにする 
②党中央への権力集中(国家=党) 
③共産党以外は認めない 
④弾圧・粛清の正当化 
⑤党内での分派の禁止
でした。
こういう形で専門家・技術者・知識人を大量に殺害してつくられたのが、ソ連の「プロレタリアート独裁・社会主義国家体制」でした。
労働者のパラダイスという宣伝の実態は「強制収容所」と「秘密警察」によって維持される『収容所群島』(ソルジェニーツィン著)でした。

一方、一握りの共産党幹部は別荘を建て、自分のために鉄道を敷き、専用の食料を得るために特別な農場までつくりました。
こうしたツケは必ず回ってきます。
汚職と腐敗、そして密告が日常化した社会生活。
やがて、国の経済が破綻し、生産がストップしてどうにもならなくなりました。

ロシア革命から約70年後、1980年代後半にスターリン体制からの脱却を目指す改革が、ゴルバチョフによって試みられます。
この改革が共産党とソ連の崩壊という結果になったのは、それが共産革命の原点を否定することにほかならなかったからです。

ロシア革命からのレーニン



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伊能忠敬(一七四五~一八一八)

伊能忠敬
ペリーをうならせた測量の実績
伊能切手

「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」
忠敬が残した言葉。「自然天命」とは「自分ではなく人類のための使命」という意味。


伊能忠敬は江戸後期1745年、上総国(千葉県中央部九十九里町)に生まれた。
十八歳の時に代々酒、しょう油を作っていた下総(千葉県北部)佐原の伊能家の養子になった。
かつて村きっての資産家だった伊能家も忠敬が継いだ時は、かなり衰えていたという。
学問の道、特に天文や数学、暦学を極めたいという夢を持っていた忠敬だが、彼がまずしなければならなかったのは家の立て直しだった。つぶれそうだった店をたてなおすため学問の道をあきらめ、自分が先頭に立って、一生懸命に家業に励んだ。
次第に家も繁昌して四十歳になる頃には前よりも豊かになって、名主などの公職について村のために尽くした。
関東に二度も飢饉があった時、二度とも私財をなげうって窮民の救済にもあたった。

五十歳。店を30万両(数百億円)程度まで拡大した忠敬は、家業を長男に譲った。
そして、長年の夢だった学問の道を志し、江戸に出る。
実はこの間、独学で暦学をおさめていたが、天文学者の高橋至時を訪ね、その精密な西洋暦法を聞いて感心。
自分より十九歳も年下の高橋の弟子になって数年間たゆまず勉強した。
その結果、同門中ならぶ者のないほどの実力をつけた。
新式の観測機を購入、製作させ、天体観測に励んでいたが、当時天文学者の間で子午線一度の長さを測ることが問題となっていた。
忠敬は、これを解決するために自費で、奥州(東北)街道と蝦夷地(北海道)の東南海岸を測量し、作製した地図を幕府に献上した。
その精巧さに驚いた幕府は、忠敬に全国の測量を命じた。
忠敬五十六歳の時だ。
自分の力量を買ってくれた幕府の命で、彼はどんな遠方にも出かけていって、全国各地を測量した。
七十二歳にしてついに「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた。
彼の十六年間の努力によって、我が国の正しい位置や形状が初めて明らかになったのである。
翌一八一八年、七十三歳で没した。忠敬が踏破した距離は、四万km以上に達した。
「大日本沿海輿地全図」は約四〇年後に来航した欧米諸国を驚嘆させた。
忠敬が割り出していた子午線の長さは、後に渡来したオランダの天文書と一致していたそうだ。
忠敬が死んで三年後、弟子たちの手で彼の記録をもとに各地の距離、緯度、その他の数値を記した「大日本沿海実測録」が完成した。
忠敬の生き方から私たちは何を学び取れるであろうか。
現代人に欠けていると思われる点は何であろうか。
それは忠敬が人生の中で何を優先課題として選択していったか、ということではないか。
彼は三十年以上もの間、天文学よりも家業を優先してきた。
彼も家業の間には、苦悩しつつ星を仰いだこともあったと思う。
しかし、やりたいことをじっと胸に秘め、家業を守るという義務を地道に果たしてきたのである。
自分の立場を考え、自分がまず、やるべきことをやってから、自分の道へと進んでいった忠敬の生き方。
簡単に快適な道を選んでしまいがちな現代人。
やりたいことはいっぱいある・・・君は何を優先して選んでいくか?



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昭和天皇と全国御巡幸

ご巡幸031
昭和天皇と全国御巡幸(ごじゅんこう)
(御巡幸:天皇陛下が各地にお出かけになり、親しく国民と交わられること)
※ 授業の流れを追うように記述します。
※ (    )内は、板書して生徒に書き込ませます。

1.昭和天皇、巡幸を決意

[問1]敗戦直後の昭和20年10月、なぜ、昭和天皇は全国を御巡幸しようと決意されたのだと思いますか?
【資料1】を読んで、核心の部分にアンダーラインを引きなさい。


【資料1】
昭和天皇は、宮内府(くないふ)次長に次のように指示されました。
「この戦争により先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄(さいやく)を受けた。
この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈(くま)無く歩いて、国民を慰(なぐさ)め、励まし、また復興のために立ちがらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う。
わたくしとしては、このことをどうしても早い時期に行いたい。
ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやり抜くつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。
宮内官はその志を達するよう全力を挙げて計画し、実行してほしい」

●天皇の言葉に政府側の重臣たちは驚き、「警備上の安全を考えても、御巡幸は差し控えた方がよい」と反対でした。
しかも、当時の日本は米軍の占領下にあって、すべての行事にはGHQの許可が必要だったのです。
陛下の全国巡幸の計画を聞いたGHQは不審に思いました。

[問2]なぜ、GHQは天皇の「全国御巡幸」の申し入れを不審に思ったのでしょうか?
【資料2】を読んで、考えなさい。


【資料2】
世界の歴史では、戦争に敗れた国の王は「国外亡命」や「自殺」、「流刑」などで王家は途絶えてしまうのが常識です。
例えば、第一次大戦後、敗戦国ドイツのヴィルヘルム2世はオランダに亡命しています。
第二次大戦では、敗戦国イタリアの国王エマヌエレ3世は国外に追放され、長男ウンベルト2世が即位しましたが、わずか1ヶ月で廃位にされました。

→ 戦争に(1  負けた   )国の最高の地位にあった人が、直接国民に会い、(2  励ます   ) などということは、世界の常識では考えられないことだったから。


[問3]昭和天皇自らマッカーサーに面会して巡幸の実現を迫り、結局、GHQは巡幸を許可しました。
なぜ許可したのでしょうか?
【資料3】を読んで、考えなさい。


【資料3】
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、GHQ高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
「ヒロヒト(昭和天皇のお名前)のおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ」。

→ GHQの予想
=天皇は身の危険にさらされるかもしれない。
いずれにせよ、日本国民は(3 歓迎 )しないだろう。


●そんなGHQの声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれました。国民の反応を見るために、G
 HQは二名のMP(アメリカ軍憲兵)を監視に付けました。

[問4]国民は陛下をどのようにして迎えたでしょうか?
ア 大歓迎   イ 拒絶反応   ウ 無視


2.昭和天皇、全国御巡幸の始まり

【資料4】を読んで、答えを確認しましょう。

【資料4】
昭和21年2月19日、神奈川県を皮切りに、東京都内へ、昭和天皇は各地で、一般国民・引き揚げ民・戦災孤児を励まされました。
最初のご訪問地・昭和電工川崎工場は空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていました。
一列に並んだ社員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれました。
感極まって泣いている者も多くいました。
二度目は都内でした。
焼け野原になった新宿では、群衆が昭和天皇を待ちかまえました。
陛下が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこみました。
以後、御巡幸先では、このような光景が繰り返されました。
天皇を熱狂してお迎えする日本国民を見てGHQは再び驚きました。
GHQは、小学生たちが禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたことを「指令違反」であるとして、巡幸中止を命じました。
しかし、御巡幸を期待する全国からの嘆願(たんがん)が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされ、翌々年に再開が許可されました。
昭和天皇は9年間にわたって、沖縄県以外の全国1411カ所、総行程にして3万3千キロの御巡幸を行いました。
陛下が直接お声を掛けられた人々は2万人、奉迎(ほうげい)者は数千万人に達したでしょう。
昭和天皇は、各地で数万の群衆にもみくちゃにされましたが、石一つ投げられたことはありませんでした。
敗戦直後で宿泊施設もなく、列車の中や学校の教室にゴザを敷いて泊まられたこともありました。
さらに「戦災の国民のことを考えればなんでもない。10日間くらい風呂に入らなくともかまわぬ」と言われ、御巡幸を続けられました。
イギリスの新聞は次のような驚きを率直に述べています。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望(せいぼう)はほとんど衰えていない。
何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」。

[問5]御巡幸で、国民が見たのはどんな天皇だったでしょう?
→ 「国民と共に(4   )を流す天皇」

【資料5】を読んで、答えを確認しましょう。

【資料5】
広島では原爆孤児84名に会われました。昭和天皇は、原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられました。
周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣いたといいます。
佐賀県の因通寺(いんつうじ)に、戦災孤児の寮(りよう)を訪ねられたときです。
中に、父と母の位牌(いはい)を胸に抱きしめていた女の子がいました。
陛下は悲しそうな顔で「お寂(さび)しい?」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は、亡くなったお父さんお母さんとお浄土(じょうど)に行ったら、きっともう一度会うことができるのです…」。
陛下は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫(な)でながら、
「これからも立派に育っておくれよ」と言われ、数滴の涙が畳の上に落ちました。
「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼びました。
それまで、雲の上のような存在だった天皇陛下が、自ら国民のもとにやってきて、親しく慰め、励しました。
それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇の姿でした。
一人ひとりが背負っている苦しみや悲しみに昭和天皇が涙を流された時、国民の中に「頑張ろう!」という気持ちが芽生えていったのでした。
このように、昭和天皇が国民を励まして歩かれ、敗戦の廃虚にあった国民に大きな力を与えたことで、戦後日本のめざましい復興エネルギーが生まれたといってよいでしょう。

→ 御巡幸で、国民が見た天皇は
  「国民と共に(4 涙 )を流す天皇」


●昭和天皇は、この全国御巡幸をたいへん重要な「国事(こくじ)」と考えておられたようです。

<昭和天皇の御製>
戦(たたかい)の わざは(ワ)ひ(イ)うけし 国民(くにたみ)を 思ふ(ウ)こころに いでたちてきぬ
わざは(ワ)ひ(イ)を わすれてわれを 出むかふ(ウ)る 民のこころを うれしとぞ思ふ(ウ)
国おこす もとゐ(イ)とみえて なりはひ(イ)に いそしむ民の 姿たのもし

 (*もとゐ=基、土台、基礎  *なりはひ=仕事)

3.国民との紐帯(ちゅうたい=絆のこと)…ご重体・崩御(ほうぎょ)

●昭和63(1988)年9月19日、昭和天皇は大量の血を吐(は)かれて重体になられました。
陛下のお見舞いに皇居へ記帳に訪れた国民の数は約900万人にものぼりました。
昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われたことがありました。
医師たちは、ご自分の命のことかと思ったのですが、本当は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのでした。
実は昭和天皇が唯一(ゆいいつ)、訪問できなかったのが沖縄県だったのです。
昭和天皇は、ご臨終の間際(まぎわ)まで御巡幸最後の地・沖縄に心を寄せ続けられていたのでした。

年が明けた昭和64年(1989)1月7日午前6時33分、昭和天皇は崩御(ほうぎよ)されました(崩御=天皇が亡くなること)。
陛下の崩御に多くの国民が悲しみに包まれました。
そして、2月24日に新宿御苑(ぎょえん)で行われた「大喪(たいそう)の礼」では、折からの氷雨(ひさめ)にもかかわらず、世界163か国、28国際機関からの弔問(ちようもん)使節が参列しました。
わずか半世紀前に世界の多くの国を相手に激しい戦争を戦った国の元首であったにもかかわらず、恩讐(おんしゆう)をこえて昭和天皇に敬意を表したのです。
なかでもインドは国旗を半旗(はんき)にして5日間も、国家として喪(も)に服してくれました。
沿道で、昭和天皇をお見送りした国民の数は60万人に及んだといいます。
我が国には、天皇と国民が深い絆で結ばれてきたという伝統があります。
かつては、このことを「君民一体(くんみんいったい)」といいました。
「激動の日々を経(へ)て、復興を遂(と)げた昭和の時代を顧(かえり)み、国の将来に思いをいたす」日として、昭和天皇のお誕生日4月29日は、「昭和の日」と定められました(平成19年から)。

【課題】
真の国民のリーダーのあり方とは、どういうものかを考えましょう。
感想を宿題として授業を終えた。

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【昭和天皇 終戦への道】 どうやって戦争を終わらせることができたのか?

【昭和天皇 終戦への道】
どうやって戦争を終わらせることができたのか?

※ 授業の流れを追うように記述します。
※ (    )内は、板書して生徒に書き込ませます。

①アメリカの世論調査「天皇をどうするか」(1945年)
 【資料1】
  殺せ。拷問して餓死させよ 36%
  戦争犯罪人として扱え 7%
  処罰または流刑にせよ 24% 
  ↓
 アメリカ人は 昭和天皇のことを
 ヒトラーのような(1   独裁者   )と考えていた

②御前(ごぜん)会議(天皇臨席のもとで行う最高会議)までの流れ
■昭和天皇の意を受けた鈴木貫太郎(かんたろう)首相は和平工作に力を尽くしていた。
  「早く終戦にしなければ、日本が滅びてしまう!」
  5月から 日本は中立条約を結んでいたソ連にアメリカとの仲介を依頼する → 回答は届かず。
  7月26日 (2   ポツダム宣言 =日本の降伏条件 )が発せられる。
     → 原爆を使いたいトルーマン大統領は、天皇を容認する条項をわざと削除した
     → そのため日本はポツダム宣言を受諾できないまま
     → 8月6日に(3 広島  )に原爆投下
  8日 ソ連が中立条約を破って、日本に宣戦布告
     → 満州になだれ込んできた。
  9日未明 最高戦争指導会議が開かれる
     → 会議の最中、(4  長崎  )に2発目の原爆投下。

■事態は一刻の猶予(ゆうよ)も許されぬ状態に…
  →9日深夜から緊急の御前会議が開かれる。

③昭和20(1945)年8月9日深夜、御前会議
  昭和天皇
鈴木貫太郎首相

   東郷茂徳(しげのり)外務大臣  → この際、ポツダム宣言を
 枢密院(すうみついん)議長        受諾して戦争を 
 海軍大臣                   終わらせるべきである
V.S
阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣 → 涙と共に
陸軍参謀総長          ↓ 訴え
海軍軍令部総長              ↓
    今日(こんにち)なお我が戦力は絶滅したわけではなく、
    本土決戦は必勝とは言えないが、必敗と決まっている
    わけではない。地の利があり、人の和がある以上、必
    ずや敵に大打撃を与え得(う)ると確信している

■会議の結果は、
①「天皇の地位を変更しない」(国体(こくたい)の
  護持(ごじ))という条件のみで受諾(じゆだく)を主張
     →東郷外務大臣ら3名。
②加えて占領・武装解除・戦争犯罪処置
 に関する合計4条件での受諾を主張
     →阿南陸軍大臣ら3名。

●鈴木首相を除いて、「降伏」と「戦争継続」の票は、3対3に割れてしまいました
 ここで鈴木首相が①に賛成すれば、4対3の多数決で議決できます。
 しかし、これでは戦争継続派を納得させられません。
 鈴木首相は、静かに昭和天皇の前に進み、
 大きな体をかがめて礼をして、言いました。
 「遺憾(いかん)ながら3対3のまま、なお議決することができません。
  この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、
  御聖断(ごせいだん)(天皇の決定)を拝しまして、
  本会議の結論といたしたいと存じます」。

●決定ができない政府首脳…、昭和天皇は、どのような決断をされたのでしょうか?

④御聖断(ごせいだん)、下(くだ)る (内閣書記官長・迫水久常(さこみずひさつね)証言より)
 【資料2】
10日午前2時ごろのことでした。天皇陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして
「みなの者は自分の意見に賛成してほしい。自分の考えは、この戦争を無条件に終結することに賛成である」と仰せられたのであります。部屋は、たちまちのうちに号泣(ごうきゆう)する声に満ちました。陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。やがて白い手袋をおはめになったお手で、両頬(ほお)をおぬぐいになりました。
「もし本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。それゆえ、まことに堪(た)えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、私がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい」

⑤ポツダム宣言受諾(じゅだく)を回答
■鈴木首相はポツダム宣言受諾を回答
 → アメリカ国務長官バーンズの返答は…、
・「天皇と日本政府の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれるもの」とする
・「日本国の政府の形態は、日本国国民の自由意思により決定されるべきもの」とする
      日本側が一番聞きたい「天皇の地位」に
      ついては、はぐらかしていた!
そのため、

⑥8月14日午前10時50分、2度目の御前会議
 【資料3】
阿南陸相は溢(あふ)れる涙をふきもせず、降伏反対を訴えました。一同シーンとして声もなく、陛下もたびたび眼鏡をもち上げ、白手袋を瞼(まぶた)にあてました。そして、陛下は静かに口を開かれました。
「私の考えはこの前申したことに変りはない。陸海軍の将兵にとって武装の解除なり占領というようなことはまことに堪(た)え難(がた)いことで、その心持ちは私にはよくわかる。しかし自分はいかようになろうとも国民の生命を助けたい。この上、戦争を続けては結局我が国がまったく焦土(しょうど)となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私としてはじつに忍び難(がた)い。堪(た)え難(がた)きを堪(た)え、忍び難きを忍び、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば必ずできると思う。私も国民とともに努力する。この際、私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ」

翌15日、異例の(5  玉音放送   )が流され、国民は泣き崩れました。
  あの勇敢な日本軍が静かに降伏し、国民も整然と行動しました。その姿は世界の人々を驚かせました。

⑦敗戦時のヒトラーは… (ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最後の12日間』より)
1945年3月19日(自殺の1ヶ月半前)、敗戦を前にヒトラーは次のように語っている。
 【資料4】
「戦争に負ければ国民も終わりだろう。ドイツ民族がこの先、原始人のように生きていくために必要な基盤(きばん)など考慮してやる必要はない。それくらいなら、そんなもの自分の手で破壊した方がましだ。なぜなら、この民族はみずからの自分の弱さを証明したからだ。…この戦いの後に残った者など、どうせ価値のない者たちだ。良い者たちはすでに戦死したからだ」

⑧昭和天皇の大御心(おおみこころ)(=天皇のお気持ち)
終戦の御聖断(ごせいだん)は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものです。それは「国民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。日本のような立憲君主制は、危機に直面して政治が機能しなくなった時には、君主が直接判断するという構造になっています。
 数十年後、昭和天皇が御聖断(ごせいだん)を下された心境を詠(よ)まれた歌が発表されています。
(6 身はいかに なるとも戦さ とどめけり
   ただたふれゆく 民を思ひて
)

●個人にしても国家にしても、その本性は危機の時こそ明らかになります。ヒトラーの国民観・国家観と比べてみた時、国民の指導者としての昭和天皇の生き方・ご決断をどう思いますか?
感想を書かせて終わり。syouwatennou-3.jpg












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《秀吉~バテレン追放令と唐入りの真実》

しばらく中断していましたが、思い立って再開します。本日は日本歩守った秀吉の偉大さを知る授業です。
《秀吉~バテレン追放令と唐(から)入りの真実》
なぜキリスト教を禁止し、朝鮮に出兵したのか?

※ 授業の流れを追うように記述します。
※ (    )内は、板書して生徒に書き込ませます。


①豊臣秀吉の時代。スペインとポルトガルは、なんと一人の王によって統治されることになりました。
世界中に広大な植民地を持つ世界最強の王、その名は(1  フェリペ2世   )。
②ヨーロッパ人は日本で、キリスト教の布教以外にも、ある事をしていました。

〔資料1〕 パゼー「日本耶蘇(やそ)教史」(耶蘇=キリシタンのこと)
 ポルトガルの商人は日本人を奴隷として連れ去った。奴隷の多くは船中で死んだ。
なぜなら、彼らをむやみに積み重ね、極めて悪い環境に置き、一度病気になったら、
一切食料を与えなかったためである。

●ここからわかることは…
日本人を (2  奴 隷  )として売買していた!

●秀吉の行動は…?
〔資料2〕
【1587年 秀吉が、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリヨに出した「五か条の詰問(きつもん)」】
   その五 何ゆえにコエリヨは自国の国民が日本人を買い、これを奴隷としてインドに輸出
         するのを認めるのか。答えよ。
【大村由己(ゆうき)(秀吉の側近)の書状より】
バテレンらは様々な宝物を山と積み、日本人を数百、男女によらず、黒船へ買い取り、手足
   に鉄の鎖をつけ、船底へ押し込め…畜生道(ちくしようどう)の有り様だ。(秀吉様は)ありがた
   いことに慈悲(じひ)の心を持って、バテレンの坊主を追い払うようにおっしゃったのである。

秀吉は天下人として、日本を守るために(3 バテレン追放令 )を出した!


③さらに1588年、秀吉は長崎を没収する。
なぜなら、長崎はキリシタン大名の大村純忠(すみただ)がイエズス会に寄付して「教会領」になり、
要塞になっていたからである。

次からスペインの作戦を読み取ろう。
〔資料3〕
【1583年、マニラ司教サラサールがスペイン国王に送った手紙】
   シナ(中国)の統治者達が、キリスト教の布教を妨害しています。これは、武装してシナに
  攻め入る正当な理由になります。これを、もっと簡単に進めるには、すぐ近くにいる日本人を
  加えると良いでしょう。日本人に必ずイエズス会の命令に従うように命令することです。
【1585年、コエリヨが、フィリピン・イエズス会布教長に送った手紙】
  日本へ軍隊を派遣し、もしも日本すべてがキリスト教に改宗すれば、陛下は日本人のように
 好戦的でりこうな兵隊を得て、いっそう簡単にシナを征服できるでしょう。

●スペインの狙いは?
  日本の(4   キリシタン大名   )を利用して(5  明   )を征服する!

もしスペインが明国を支配したら、日本はどうなるか…。
          かつての元寇を上まわる脅威に!!!

④これを阻止するため、秀吉は動きました。
 朝鮮出兵の前年にスペインとポルトガルのアジア責任者あてに
 出した秀吉の手紙は気合いが入っています!

〔資料4〕いまだにフィリピンは、私に挨拶(あいさつ)に来ない。ゆえに、兵を率い
て討とうと思っている。旗を倒し、速やかに降伏すべし。もし降伏しなけれ
ば、征伐(せいばつ)する。後で後悔するな。

⑤こうして1592年、ついに秀吉は「唐入り(朝鮮出兵)」=(6 文 禄 の 役  )を決意する。
  ↓
 秀吉軍は朝鮮で連戦連勝。明国から講和を求められ、休戦になりました。
  ↓
休戦の翌1597年。秀吉は捕らえた宣教師ら26人全員を長崎で処刑しました。

●どうして?

〔資料5〕【1596年、サン・フェリペ号事件】
約300人の黒人奴隷を満載して、メキシコに移送中だったスペイン船サン・フェリペ号が土佐沖で座礁(ざしょう)した。
秀吉に派遣されて現地へ行った増田(ました)長盛はサン・フェリペ号の積み荷を没収した。
怒ったスペインの船員は、増田に抗議した。
その時、世界地図を見ながら増田(ました)は
「なぜ、スペインはこんなに広大な領土を持てるようになったのか」
と聞いた。
すると、スペイン人は平然として答えた。
「それは、まず宣教師を諸国に派遣し、そこの住民を信者にする。
その後、兵力を持って攻め込む時、その信者に反乱を起こさせ、
そのまま併呑(へいどん)(のみこむこと)するのだ」。
増田(ました)は戦慄(せんりつ)して秀吉に報告した。

⑥「布教」と「征服」は、車の両輪の関係だったのである。
サン・フェリペ号事件で、秀吉は
「キリシタンを利用して、日本を(7   植 民 地 )にする」
というスペインの侵略意図を確信したのだった!

【サン・フェリペ号事件を非難してきたフィリピン総督に対する秀吉の回答】
〔資料6〕 聞くところによれば、貴国は布教を通して謀略的(ぼうりやく)に外国を征服しようと
たくらんでいるということだが、もし我が国からあなたの国に入り込み、神道を説いて国民を
惑わすことがあったら、あなたは喜びはしないだろう。これを思え。
貴国の者らが我が国の法(バテレン追放令)にそむいたので、積み荷を没収したのである。
私の処置が間違っていると思うか。我が国民が、あなたの国であなたの法を守らなければ、
処罰していただいて結構だ。

1597年、2度目の唐入りを開始=(8 慶 長 の 役 )


【まとめ】
1.秀吉は明国の向こうに何をにらみ、
 本当はどこと戦っていたのですか?
→ 秀吉は、
     フェリペ2世の(9  スペイン ・ ポルトガル )と戦っていた
→ 朝鮮出兵の目的は
     「スペインに(10   明   )を取られる前に先手を打つ!」
2.秀吉の決意とは?
   →「天下人として、
       日本の(11  独 立  )を守る義務を果たす!」


●唐入りは、秀吉の死で終わりました。しかし、ヨーロッパとの戦いは終わってません。
 キリスト教との戦いは、次の(12  徳川家康   )に引き継がれていくのでした!

終わり






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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
横浜・神奈川の志ある先生の参加をお待ちしています!
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個人的な連絡はコメントからどうぞ。

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