ロシア革命の指導者レーニン
【ロシア革命~ソ連の成立】
革命の指導者レーニン

第一次大戦の最中、1917年2月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の女性労働者の始めた「パンよこせデモ」がきっかけで、大規模なストが起こりました。
これに反乱軍が加わり、監獄を解放し、兵器工場を襲いました。
労働者や反乱軍によって臨時政府が成立し、皇帝ニコライ2世は退位させられます。
ここに、300年続いたロマノフ王朝が終わりました。これを2月革命といいます。
このニュースをレーニンは亡命先のスイスで聞きました。46歳の時でした。
彼は共産主義(社会主義)のリーダーとして、国外から、ロシア社会民主労働党の左派「ボルシェビキ」を指導していたのです。
ただちに帰国したレーニンは、
「戦争停止・即時和平」
「全権力をソビエト(会議という意味)へ」
のスローガンを主張。これでソビエト内で少数派だったボルシェビキは、戦地に行きたくない兵士や労働者らの支持を得ました。
そして、10月。ボルシェビキ派の兵士らが政府のある宮殿に突入し、閣僚を逮捕して権力の奪取に成功します。
レーニンは、これをもって「プロレタリアート(労働者)の名のもとに権力奪取が行なわれた」と宣言しました。
10月革命です。
以来70年以上続く労働者階級の名を借りた「独裁」が始まりました。
レーニンは次々とライバルの政党を非合法化し、弾圧していきます。
また町では、武装兵士や農民がソビエトの名で商店・民家から食料や衣料品を略奪していきました。
10月革命の後、多くのコサック(シベリアの騎馬民族集団)が「白衛軍(反革命の軍)」に参加して、レーニンら革命政権の「赤軍(共産軍・赤旗を持っている)」と戦うことになりました。
この時、追いつめられた白衛軍兵士をかくまった住民たち数万人が、赤軍に虐殺されました。
レーニンは反革命の動きに対して冷酷でした。
共産主義勢力の拡大を嫌った米英ら連合国側の武力干渉が始まりました。
赤軍指導者の一人トロツキーは「敵前逃亡は容赦なく射殺する」と命じ、実行しました。
味方の部隊の退路を背後から銃でふさいだのです。
レーニンはこれを「絶対に正しいことだ」と支持しました。
なぜなら、党と指導者の命令に絶対服従することは、共産主義の掟(おきて)だからです。
そして、この掟を守らせる方法が「テロ」と「粛清(相手を抹殺して排除すること)」でした。
これこそが「革命」を遂行するボルシェビキの最大の武器だったのです。
ソビエト連邦(ソ連)共産党の秘密文書となっていたレーニンの命令書を読むと、それが裏付けられます。
例えば、白衛軍がペトログラードに迫った時、自国の労働者2万人と資本家1万人を人間の盾とし、後から機関銃で追い立てて突撃しようとしました。
食料の徴発では、
「陰謀したり、迷っている者を銃撃せよ。誰の許可もいらない。のろまなことはやめよ」
「2、30人の金持ちを人質とし、穀物の供出に自分の生命で責任をとらせよ」等々…、
革命と内戦により国中が大飢饉に見舞われていた時にもかかわらず、冷酷な命令を数多く出しています。
レーニンは共産党の独裁を確立する最大の障害であった教会に対しても徹底した弾圧で臨みました。
彼は教会の財産没収に反対する聖職者や信徒の農民らを見せしめのために処刑し続けました。
「聖ニコライの祭日」に仕事を休んだというだけで労働者を銃殺しました。
レーニンは1918年8月、「赤色テロ」宣言をして、反対派への徹底した攻撃を開始しました。
「粛清」による反対意見の完全封殺です。
反乱者に対しては、その場で何千人でも銃殺で処理し、農民に対してさえ毒ガスを使用しました。
余りに安易に「粛清」を行なった例として、次のようなエピソードがあります。
秘密警察の長官ジェルジンスキーが、ある会議の時にレーニンから紙を回されて「監獄にはどのくらい悪質な反革命家がいるか?」と尋ねられました。
ジェルジンスキーはその紙に「約1500人」と書いて返したのです。
すると、レーニンはそのメモに×印をつけて返してよこしました。
実はレーニンは日頃の習慣で、自分が書類を見終ったら、そのしるしとして×のサインをつけるクセがあったのです。
しかしジェルジンスキーは、こいつらをやってしまえというレーニンの処刑命令だと思い込んで、一晩のうちに1500人の政治犯を射殺してしまいました。
こうした虐殺について、非常時だからやむをえなかったと擁護(ようご)する学者がいますが、どうでしょうか。
その後のソ連の歴史を見ると、内戦終結後も「テロ」と「粛清」はずっと続いています。
「テロ」と「粛清」こそ、自己を絶対化するというソ連共産党の本質に根差す性格だったといえるでしょう。
レーニンは「誰でもいいから100人殺せ」とか「1000人殺せ」とか区切りのいい数で指示しています。
どうやら彼は誰が殺されるのか、殺される人物に罪があるのかどうかということにまるで関心がなかったようです。
レーニンにとって殺すべき相手は「数の大小」だったのです。
今でもシベリアでは凍結した川が春になって川岸の土を削ると、折り重なった無数の遺骨が姿を現わすそうです。
こうしたレーニンのやり方は、後継者のスターリンに、忠実に受け継がれていき、より強化されました。
ソ連の体制は、レーニンから一貫して
①議会を形だけのものにする
②党中央への権力集中(国家=党)
③共産党以外は認めない
④弾圧・粛清の正当化
⑤党内での分派の禁止
でした。
こういう形で専門家・技術者・知識人を大量に殺害してつくられたのが、ソ連の「プロレタリアート独裁・社会主義国家体制」でした。
労働者のパラダイスという宣伝の実態は「強制収容所」と「秘密警察」によって維持される『収容所群島』(ソルジェニーツィン著)でした。
一方、一握りの共産党幹部は別荘を建て、自分のために鉄道を敷き、専用の食料を得るために特別な農場までつくりました。
こうしたツケは必ず回ってきます。
汚職と腐敗、そして密告が日常化した社会生活。
やがて、国の経済が破綻し、生産がストップしてどうにもならなくなりました。
ロシア革命から約70年後、1980年代後半にスターリン体制からの脱却を目指す改革が、ゴルバチョフによって試みられます。
この改革が共産党とソ連の崩壊という結果になったのは、それが共産革命の原点を否定することにほかならなかったからです。

革命の指導者レーニン

第一次大戦の最中、1917年2月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の女性労働者の始めた「パンよこせデモ」がきっかけで、大規模なストが起こりました。
これに反乱軍が加わり、監獄を解放し、兵器工場を襲いました。
労働者や反乱軍によって臨時政府が成立し、皇帝ニコライ2世は退位させられます。
ここに、300年続いたロマノフ王朝が終わりました。これを2月革命といいます。
このニュースをレーニンは亡命先のスイスで聞きました。46歳の時でした。
彼は共産主義(社会主義)のリーダーとして、国外から、ロシア社会民主労働党の左派「ボルシェビキ」を指導していたのです。
ただちに帰国したレーニンは、
「戦争停止・即時和平」
「全権力をソビエト(会議という意味)へ」
のスローガンを主張。これでソビエト内で少数派だったボルシェビキは、戦地に行きたくない兵士や労働者らの支持を得ました。
そして、10月。ボルシェビキ派の兵士らが政府のある宮殿に突入し、閣僚を逮捕して権力の奪取に成功します。
レーニンは、これをもって「プロレタリアート(労働者)の名のもとに権力奪取が行なわれた」と宣言しました。
10月革命です。
以来70年以上続く労働者階級の名を借りた「独裁」が始まりました。
レーニンは次々とライバルの政党を非合法化し、弾圧していきます。
また町では、武装兵士や農民がソビエトの名で商店・民家から食料や衣料品を略奪していきました。
10月革命の後、多くのコサック(シベリアの騎馬民族集団)が「白衛軍(反革命の軍)」に参加して、レーニンら革命政権の「赤軍(共産軍・赤旗を持っている)」と戦うことになりました。
この時、追いつめられた白衛軍兵士をかくまった住民たち数万人が、赤軍に虐殺されました。
レーニンは反革命の動きに対して冷酷でした。
共産主義勢力の拡大を嫌った米英ら連合国側の武力干渉が始まりました。
赤軍指導者の一人トロツキーは「敵前逃亡は容赦なく射殺する」と命じ、実行しました。
味方の部隊の退路を背後から銃でふさいだのです。
レーニンはこれを「絶対に正しいことだ」と支持しました。
なぜなら、党と指導者の命令に絶対服従することは、共産主義の掟(おきて)だからです。
そして、この掟を守らせる方法が「テロ」と「粛清(相手を抹殺して排除すること)」でした。
これこそが「革命」を遂行するボルシェビキの最大の武器だったのです。
ソビエト連邦(ソ連)共産党の秘密文書となっていたレーニンの命令書を読むと、それが裏付けられます。
例えば、白衛軍がペトログラードに迫った時、自国の労働者2万人と資本家1万人を人間の盾とし、後から機関銃で追い立てて突撃しようとしました。
食料の徴発では、
「陰謀したり、迷っている者を銃撃せよ。誰の許可もいらない。のろまなことはやめよ」
「2、30人の金持ちを人質とし、穀物の供出に自分の生命で責任をとらせよ」等々…、
革命と内戦により国中が大飢饉に見舞われていた時にもかかわらず、冷酷な命令を数多く出しています。
レーニンは共産党の独裁を確立する最大の障害であった教会に対しても徹底した弾圧で臨みました。
彼は教会の財産没収に反対する聖職者や信徒の農民らを見せしめのために処刑し続けました。
「聖ニコライの祭日」に仕事を休んだというだけで労働者を銃殺しました。
レーニンは1918年8月、「赤色テロ」宣言をして、反対派への徹底した攻撃を開始しました。
「粛清」による反対意見の完全封殺です。
反乱者に対しては、その場で何千人でも銃殺で処理し、農民に対してさえ毒ガスを使用しました。
余りに安易に「粛清」を行なった例として、次のようなエピソードがあります。
秘密警察の長官ジェルジンスキーが、ある会議の時にレーニンから紙を回されて「監獄にはどのくらい悪質な反革命家がいるか?」と尋ねられました。
ジェルジンスキーはその紙に「約1500人」と書いて返したのです。
すると、レーニンはそのメモに×印をつけて返してよこしました。
実はレーニンは日頃の習慣で、自分が書類を見終ったら、そのしるしとして×のサインをつけるクセがあったのです。
しかしジェルジンスキーは、こいつらをやってしまえというレーニンの処刑命令だと思い込んで、一晩のうちに1500人の政治犯を射殺してしまいました。
こうした虐殺について、非常時だからやむをえなかったと擁護(ようご)する学者がいますが、どうでしょうか。
その後のソ連の歴史を見ると、内戦終結後も「テロ」と「粛清」はずっと続いています。
「テロ」と「粛清」こそ、自己を絶対化するというソ連共産党の本質に根差す性格だったといえるでしょう。
レーニンは「誰でもいいから100人殺せ」とか「1000人殺せ」とか区切りのいい数で指示しています。
どうやら彼は誰が殺されるのか、殺される人物に罪があるのかどうかということにまるで関心がなかったようです。
レーニンにとって殺すべき相手は「数の大小」だったのです。
今でもシベリアでは凍結した川が春になって川岸の土を削ると、折り重なった無数の遺骨が姿を現わすそうです。
こうしたレーニンのやり方は、後継者のスターリンに、忠実に受け継がれていき、より強化されました。
ソ連の体制は、レーニンから一貫して
①議会を形だけのものにする
②党中央への権力集中(国家=党)
③共産党以外は認めない
④弾圧・粛清の正当化
⑤党内での分派の禁止
でした。
こういう形で専門家・技術者・知識人を大量に殺害してつくられたのが、ソ連の「プロレタリアート独裁・社会主義国家体制」でした。
労働者のパラダイスという宣伝の実態は「強制収容所」と「秘密警察」によって維持される『収容所群島』(ソルジェニーツィン著)でした。
一方、一握りの共産党幹部は別荘を建て、自分のために鉄道を敷き、専用の食料を得るために特別な農場までつくりました。
こうしたツケは必ず回ってきます。
汚職と腐敗、そして密告が日常化した社会生活。
やがて、国の経済が破綻し、生産がストップしてどうにもならなくなりました。
ロシア革命から約70年後、1980年代後半にスターリン体制からの脱却を目指す改革が、ゴルバチョフによって試みられます。
この改革が共産党とソ連の崩壊という結果になったのは、それが共産革命の原点を否定することにほかならなかったからです。

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