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日本マラソンの父・金栗四三②


道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる
「日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)」
        3度のオリンピック

(つづき)

s-金栗

◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


「マラソンをやめた」
「もっと努力した」
「また教師に戻った」など

『資料4で確認しましょう』

【資料4】その後の金栗四三◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

四三は現役を引退しましたが、指導者として大きな功績を残しました。
その画期的な仕事のひとつが、マラソンシューズの開発です。
底にゴムを張りつけた「金栗足袋」は、全国の運動会などで愛用され、多くの選手たちを助けました。

四三は選手の育成、競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習方法を取り入れていきました。

また、
「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」
と、四三はチームで練習をやろうと考え、箱根駅伝を企画しました。
ふだんの練習をゲームにして、互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めてマラソンのレベルアップにつなげようとしたのです。

さらに、女性のスポーツが一般的でなかった当時、四三は女子体育の大切さを説き、全国に普及させました。

四三は常に日本スポーツ界の先頭に立って、全国を回り、オリンピック運動や陸上競技の普及・向上に努めました。
抜群の発想力、企画力、行動力、指導力、組織力を発揮し、日本スポーツ界のパイオニアとして活躍しました。

戦後も全国マラソン連盟の会長となり、現在のマラソン界につながる試みのほとんどが四三の発案です。
我が国が長距離走に強いのは、四三のおかげと言ってもいいでしょう。

一方で後輩たちからは「お釈迦様」と呼ばれるほど、誠実で温厚な人柄でした。

s-kanakuri411金栗四三

そんな四三の座右の銘は
「体力、気力、努力」
です。

現役時代から換算すると四三の全走行距離はなんと25万km、およそ地球6周以上にもなります。


世界のマラソン界でも金栗四三の名は知れ渡り、いつしか四三は「日本マラソンの父」と呼ばれるようになりました。

そんな彼のただひとつの心残りがストックホルム大会での挫折でした。

初のオリンピックを途中棄権してから50年余りが過ぎた昭和42(1967)年。
75歳になった四三のところにスウェーデンのオリンピック委員会から招待状が届きました。
「ストックホルムオリンピック開催55周年」を記念する式典に招待するというのです。

実はストックホルム大会の時、正式に棄権届けを出していなかったので、四三は
「競技中に失踪し、行方不明」
として扱われていたのです。
その「消えた日本人選手」が、今も健在であることを知った委員会が四三を招待したのでした。
その招待状には、なんと次のように書いてあったのです。

「あなたは、1912年のストックホルムオリンピックマラソン競技において、まだゴールをされていません。
あなたがゴールするのをお待ちしております」


四三は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
するとそこには、一本のゴールテープが用意されていました。
彼のためだけに用意されたゴールです。
観客の割れるような拍手の中、四三は20メートルほどの直線を走ってテープを切りました。
スタジアムには、

「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これで第5回ストックホルム大会は、全日程を終了しました」


とアナウンスが流れました。
観客たちは、20歳でスタートし、75歳でゴールした四三を声援と拍手でたたえました。

四三は、これに答えて

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

とユーモアあふれるコメントを返し、ストックホルムの人々は大喜びです。

この記録はオリンピック公式記録として認定されました。
今後、この記録が破られることはないでしょう。

s-kanakuriten854年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールした瞬間


昭和59(1984)年11月13日、四三は93才で永眠しました。
箱根駅伝では、彼の功績をたたえて、最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料4】を読んで、考えたことや感心したことは何ですか。
今日の学習内容に照らして、現在の自分はどうですか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


(授業 終わり)


日本マラソン界に多大なる貢献をした四三の功績を称えるとともに、不屈の闘志で頑張った四三から
「努力を続けることの大切さ」
を学びとらせたいですね。

また、スウェーデン人の粋なはからいに感動しました。
偉大な人の功績は、国境を越えるのでしょう。

現在、ストックホルム近郊のマラソンコースがあった町「ソレントゥナ」に金栗四三の記念銘板が設置されています。

s-ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板Commemorative_plaque_of_Shizo_Kanakuri_in_Sollentuna

左の女性が、四三を介抱してくれた農家の人の子孫ですって。
JOCの竹田会長からプレート贈呈。

s-金栗四三 JOCが感謝のプレート贈呈 百年前、マラソン金栗を介抱した家族の子孫に

■参考文献■

・『熊本陸上競技史』(熊本陸上競技協会創立60周年記念)
平成19年3月発行
・熊本県和水町HP「マラソンの父・金栗四三」
 http://www.town.nagomi.lg.jp/default.asp
・熊本県立玉名高等学校HP「大先輩」
 http://www.higo.ed.jp/sh/tamanash/
・『走れ25万キロ―マラソンの父金栗四三伝』
 豊福一喜、長谷川孝道(講談社)
・『走ったぞ!! 地球25万キロ―マラソンの父・金栗四三』
 浜野卓也、清水耕蔵(佼成出版社)
・ビデオ『夢をかなえた男マラソン王 金栗四三』
 (テレビ熊本偉人シリーズ)1999年作品
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日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)


道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる
「日本マラソンの父・金栗四三」
        3度のオリンピック


◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

あなたは挫折したことがありますか?
どんなことで落ち込みましたか?
あなたは、なぜ挫折をしないのでしょうか?
今は立ち直ってますか?
どうやって立ち直りましたか?
どうすれば立ち直れると思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


中学生といえども、たいがい誰でも大なり小なりの挫折を経験しているものです。
今日の徳目は「強い意志」とは何かを考えること。
ひとしきり生徒に自分自身を振り返らせたあと、【資料1】に入ります。

【資料1】オリンピック日本人選手第1号◆◇◆◇◆◇◆

箱根駅伝20140102204158

今や正月の恒例行事となっている箱根駅伝。
その第1回大会は大正9年(1920年)2月14、15日に行なわれました。
慶応大・明治大・早稲田大・東京高等師範(現筑波大学)の4校で競いました。
数々のドラマはこの時から始まりました。
この箱根駅伝の提唱者が金栗四三という人です。

さて、日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年、スウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会です。
参加した日本代表選手は、たったの2人。
そのひとりがマラソン代表の四三(しぞう)でした。

日本で「マラソン=42.195キロ」が定着したのは1911年。
このストックホルム大会の前年に行われた国内予選のことです。
これが日本初の公式マラソンでした。

日本マラソンの始まりは劇的でした。
羽田からスタートして川崎を経て、東神奈川で折り返すコースです。
この大会で四三は、雨風の悪条件の中、2時間32分45秒のタイムで優勝し、なんと当時の世界記録(2時間59分45秒)を27分も縮めたのです!

東京中に号外が舞ったといいます。
この驚くべき記録で優勝した四三は、翌年のストックホルムオリンピックに「日本人選手第1号」として出場することになりました。
この時、20歳の若者でした。

金栗四三は、明治24(1891)年8月20日、熊本県和水(なごみ)町の造り酒屋に生まれました。
父親が43歳の時に生まれたので、四三と名付けられました。
小学校時代は往復12キロの道のりを、毎日走って通学したといいます。
中学校時代は特待生に推薦されるほどの秀才で、スポーツの経験はなかったそうです。

東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(かのうじごろう)(講道館柔道創始者)に才能を見出されます。
陸上競技部に入部し、独特の工夫とアイディア、人の何倍もの努力を積み重ね、たちまち学校を代表するランナーに成長していきました。

オリンピック代表選手に選ばれた時、四三は、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもある嘉納校長に、胸の内を打ち明けました。

「先生、羽田のレースでは幸運にも勝つことができました。
しかし、充分な練習も準備もできていないまま、たとえ3、4ヶ月のトレーニングを積んだとしても全く自信はありません。
行けば是非勝ちたいと思うでしょう。
また、勝たねば期待してくれる国民諸君に申し訳ありません」

日本人初のオリンピック出場に、四三には巨大なプレッシャーがのしかかっていました。

s-1924年に開催されたオリンピック、第8回パリ大会での金栗四三選手。足袋を履いている。
「日本マラソンの父」といわれている金栗四三の現役時代(左)。足に履いているのは何でしょう?

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

金栗四三はオリンピックへの出場を決意するのですが、それは何のためだと思いますか?

ア、自分自身のため
イ、家族や世話になった人達のため
ウ、その他

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


【資料2】「JAPANなら、やめます」◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック出場に迷う四三に対して、嘉納は
「君の足で、君のマラソンの力で、日本のスポーツの海外発展のきっかけを築いてくれ。
勝ってこいというのではない。
最善を尽くしてくれればいいのだ。
日本スポーツ界のために『黎明(れいめい)の鐘』となりなさい」
と説きました。

黎明とは、夜明けのことです。
「黎明の鐘」という言葉にしびれた、と四三は決意します。

「実力を発揮すれば必ず金メダルが獲得できる!」
マラソンシューズなどは持っていないので、四三は底を厚く縫い合わせた足袋を履いて競技していました。
この格好で、絶対に優勝してみせるとの信念で、ストックホルムへと向かいました。

開幕の直前、組織委員会から「日本の国名標示をどうするか」と問い合わせが来ました。
四三が「正式の国名どおりに漢字で『日本』とすべきでしょう」と提案。
「それでは外国人には読めない。やはり英語でJAPANに」と国際通の監督。
ところが、四三は
「それは外国人が勝手につけた名前です。
『日本』という本当の呼び名を使い、世界の人々に知らせる必要がある。
JAPANならプラカードを持つのをやめます」
と譲りません。
困ったみんなが一斉に団長の嘉納治五郎の顔を見ます。
「ウーム、どちらも一理ある。発音はニッポン、標記はローマ字。つまりNIPPONでどうか」
この調停に一件落着しました。

このエピソードは、四三が母国日本のために戦うと強く決意していたことを良く表しています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

●発問2の答は「その他」→「日本のため」でした。
「国の代表」という重みと四三の気概を感じ取らせたいところです。

s-五輪ストックホルム大会旗手スキャン_edited
1912年7月14日 開会式の入場行進
短距離走の三島弥彦が国旗、四三はプラカードを持つ。
出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく、観衆の同情をひいた。



【資料3】歴史に残る過酷なレース◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック最終日、マラソンがスタートしました。
しかし、四三は冬のマラソンしか経験が無かったのです。
しかも当日は北欧では珍しい猛暑の40度近い炎天下、参加選手68人中で完走したのはわずか37人でした。
意識不明で死者まで出る歴史に残る過酷なレースになったのです。

母国日本の期待を一身に背負った四三も、初めての海外遠征・慣れない洋食・白夜(びゃくや)とストレスによる睡眠不足がたたり、25キロを過ぎたところで意識不明となりました。
熱中症です。

近くの農家に助けられ、目を覚ました時は翌日の朝になっていました。
競技中に姿を消したので大騒ぎになり、「日本人選手が行方不明」と新聞にまで載ってしまいました。

四三は日記に

「大敗後の朝を迎えた。
自分の一生で最も重大な記念すべき日だったのに。
しかし、失敗は成功の基、またその恥をすすぐ時が来る。
雨降って地固まるの日を待つのみ。
笑わば笑え。
この敗北は日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものである。
重い責任を果たせなかったことは、死んでもなお足らないけれども、死ぬことは簡単なことである。
生きてその恥をすすぎ、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してマラソンの技を磨き、日本の名誉を示そう」


と、あふれる涙をぬぐいながら書きました。

■翌日の日記原文
大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重任を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。(以上抜粋)



帰国後、四三は4年後の第6回ベルリン大会を目標に練習に励みました。
日本選手権などで2回も世界最高記録を出し、誰もが今度こそ金メダル間違いなしと思いました。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オリンピック自体が中止になってしまいました。

それでも、四三はまったくあきらめませんでした。
歴史と地理の先生をしながら、さらに自分の走りに磨きをかけます。
そして迎えた第7回アントワープ大会。
優勝を期待されながら、今度は寒さによる足の痙攣(けいれん)で無念の16位。

次の第8回パリ大会(1924年)では、四三すでに33歳。3
2キロ地点で棄権を余儀なくされました。

結局、四三はストックホルムのリベンジを果たせないまま、悲運のアスリートと言われるようになりました。
s-kanakuriten41第八回パリ大会で激走する四三(1924)
第八回パリ大会で激走する四三(1924)

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


(つづく)
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佐久間艇長(ていちよう)の遺書

1-(3)役割と責任・強い意志
「佐久間艇長の遺書」


佐久間勉遺書

◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

これは手帳に書かれた文字です。
感じたことを一言どうぞ。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


○字がきたない?
○急いで書いている。
○「遺言」って書いてある。 など

『実は…、これは「遺書」です。
手帳の文字は、この人が書きました』

佐久間勉

『名前は佐久間勉(つとむ)。
海軍大尉です。
【資料1】を読みます』

【資料1】 第6潜水艇  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

氏名:佐久間勉
生年月日:明治12(1879)年9月13日
出身:福井県三方(みかた)町
職業:大日本帝国海軍の軍人
早くに妻を亡くし、子供は女の子が一人。

佐久間艇長の第6潜水艇
艇

佐久間勉は、潜水艇の艇長をしていました。
潜水艇とは、海に潜ったまま進む船のこと、今の潜水艦の小さなものです。

我が国が日露戦争に勝利して5年後のことです。
明治43年(1910)4月15日、佐久間艇長の第6潜水艇は潜航の演習をするために山口県の新湊(しんみなと)沖に出ました。
午前10時、演習を始めると、間もなく潜水艇が故障して海水が艦の内部に入り込みました。
そして、後ろに大きく傾いて海底に沈んでしまったのです。
この時、佐久間艇長と乗組員13人は、艇を浮上させようと、排水などできるかぎりの手段を尽くしましたが、艇はどうしても浮きあがりません。
その上、エンジンの排気ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることもできなくなりました。

佐久間艇長は「もはやこれまで」と最期の決心をしました。
そこで、海面から水をとおして司令塔の小さな覗孔(のぞきあな)に入って来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に文字を書きつけはじめました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

佐久間艇長は、どんな内容を書いたと思いますか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


○まだ死にたくない。
○どうしてこんなことになったのだー。
○みんな元気でやってくれ。

『死を目の前にした時…、どんなことを書くでしょうか?
【資料2】で、確認しましょう。』

【資料2】佐久間艇長の遺書 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

佐久間艇長は、ものすごい呼吸困難の中で、半身を海水に浸かりながら遺言を書きました。
かすかな光を頼りに、小さな手帳に39ページにもわたって書き記したのです。

======================
佐久間艇長遺言
小官の不注意により陛下の艇を沈め、部下を殺す、誠に申し訳なし。
されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事をしょせり。
我れ等は国家のため職に斃(たお)れしといえども、ただただ遺憾(いかん)とする所は
天下の士はこれを誤り、もって将来、潜水艇の発展に打撃をあたうるに
至らざるよう憂うるにあり。
願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく
将来、潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
さすれば我れ等、一つも遺憾とするところなし。(以下略)
======================


沈没後、電灯が消えて酸素は刻々と消費されていきます。
ガソリンによるガスは艇内に充満し、部下は一人、また一人と絶命していったのでしょう。

このような状況の中で、佐久間艇長は「天皇陛下の艇を沈め、部下を死なせるに至ったこと」を謝り、「全員が最後までよくその職務を守ったこと」を遺書に書きました。

遺書はこのあと、この事故により「潜水艇開発の発達を妨げることのないように」と、沈没の原因・沈没後の状況について、詳しい説明が続きます。

======================
公遺言(こうゆいごん) 
謹(つつし)んで陛下に白(もう)す。
部下の遺族をして窮(きゅう)するもの
無からしめ給(たま)わんことを。
我が念頭に懸るもの之(これ)あるのみ。
======================


佐久間艇長は、
「部下の家族が困らないようにして下さい」
と天皇陛下に特別な配慮をお願いしました。
続いて、上官や先輩、恩師の名を書きつらねて、別れを告げました。

そのあと、遺書は

=======================
十二時三十分呼吸非常に苦しい。
ガソリンをブローアウトせししつもりなれども、
ガソリンにようた
=======================

と書かれ、最後に

=======================
十二時四十分なり
=======================

と記して終わっています。

ここで佐久間艇長は気を失い、そのまま亡くなったと思われます。
享年30でした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問3 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料2】には、佐久間艇長の願いが2つ書かれていました。
何でしたか?

①事故によって(  )が遅れないようにして欲しい。
②殉職した部下たちの(   )が困らないようにして欲しい。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●資料を確認しながら書かせましょう。

<答え>
①潜水艇の発展・研究
②家族の生活


『私的なお願いは1つもありませんでしたね。
どう思いますか?』

【資料3、4】を読みます。

【資料3】衝撃の事実が明らかに ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

沈没の2日後、ようやく潜水艇は引き揚げられました。
この時、現地に駆けつけた遺族は遠くへ離され、立入りを禁じられました。
なぜ、遺族を遠ざけたのでしょうか?

実は外国での潜水艇の事故では、ハッチを開いてみると、出口に乗組員たちが
「死にたくない!」
と殺到して死んでいることが多かったからです。
それは、我れ先にと争った跡が歴然としていたり、苦しさのあまりノドをかきむしったりしていたのです。
そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかないでしょう。

ところが、いざハッチを開いても、そこには誰の姿も見えませんでした。
「…?」

艇内の奥に入り、その内部の様子を見た関係者たちは思わず息を呑みました。
状況を検分した吉川中佐は「よろしいッ!」と絶叫しました。
そして、泣き崩れたのです。

なんと佐久間艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に…、
と全乗組員がそれぞれの持ち場についた状態のまま死んでいたからです。

これは、14人全員が艇の修復に全力を尽くしたまま息絶えたことを示していました。

そして、佐久間艇長の遺言が、遺体の上着のポケットから発見されました。
死の直前に取り乱さず、後世のために遺書を記していたことに、世界中の人が驚きました。

英国の新聞『グローブ』は、
「日本人は体力上だけでなく、道徳上、精神上もまた勇敢であることを証明している。
今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」
と驚嘆しました。

この事故は今では語られることもなく、佐久間勉の名前を知る日本人はほとんどいません。
しかし、世界各国の潜水学校では尊敬すべき潜水艦乗りとして教育されています。

実は佐久間艇長は、武人の覚悟として以前から遺書を書いて、自分の机の中に置いていました。
その遺言には、「私的な」お願いが書いてありました。

佐久間艇長は何を願っていたと思いますか?

そこには、次のようなことが書いてありました。

=================
我れ死せば遺骨は郷里において
亡き妻のものと同一の棺(ひつぎ)に入れ
混葬(こんそう)さすべし
=================


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)

○すごい人たちだ。
○責任感がすごい。
○奥さんのことがとても好きだったのだと思う。

事故後に、引き揚げられた潜水艇
引き上げられた艇


【資料4】100年後の今も… ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「第6潜水艇殉難慰霊碑」がある呉市の鯛之宮(たいのみや)神社では、毎年追悼式が行われています。
呉市の各小学校では佐久間艇長と遺書のことを学び、感想文を書きます。
その優秀作品を追悼式で本人が朗読します。

平成23年に選ばれた呉中央小学校6年の谷川舞さんは、心に残ったこととして

「沈んでいく船の中で、自分の持ち場を離れずに力を尽くしたこと」
「自分のことだけを考えて行動しなかったこと」
「みんなのことを思う佐久間艇長の思いやり」


の3つを挙げ、東日本大震災に関して、次のように書いています。

《今、日本では、東日本大震災というかつてない大きな地震によって、たくさんの方々が大変な状況の中で生活をしておられます。

その中でも、佐久間艇長さんのような方々がたくさんいることを思い出しました。
食料を譲り合い、自分が持っている物を分けたり、子供や高齢の方を優先したり、自分も苦しいけれど、みんなのために譲り合う姿に心を打たれました。

私がテレビで見た消防士の方は、津波が来るぎりぎりまで車で声をかけて回ったそうです。
結果、亡くなられましたが、最後まで人を思いやっていた方のことが、ずっと心に残っていました。

第六潜水艇の学習をして、この事故は百年も前のことですが、今の日本にもその心は受け継がれていることを感じました。

私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです。
そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考え、責任をもって行動したいです。》


100年後の日本の子供の朗読を、佐久間艇長たち14人の英霊は、どんな気持ちで聞いたでしょうか。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆(資料ここまで)


◆ 発問4 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

今日の話のどんなことが強く心に残りましたか?
自分の職務に対する佐久間艇長の姿勢や覚悟に照らして、今の自分はどうですか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●究極の状況でも職務を果たそうとした佐久間艇長の責任感の強さから、何かを学び取って欲しい。
仕事や勉強、部活動において、今の自分の責任感はどうだろうか?

●「死んだら亡き妻と一緒に墓に入れて欲しい」という私的なお願いが胸を打つ。
きっと家庭では、良き夫であり、良き父であったのだと思う。

●大震災の時、私たちは日本には多くの佐久間艇長がいたことを知っている。
このことを、どう思うか。


(おわり)

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道徳「日本ミツバチの団結力と日本人の美徳」


4-(4)思いやり・集団の一員としての自覚
「日本ミツバチの団結力と日本人の美徳」


鎌倉時代の末、1274年にモンゴルと高麗の連合軍が襲来しました。元寇です。
この時、宏覚という禅僧が戦勝の祈願文に一首を載せています。

末の世の 末の末まで 我が国は
よろづの国に すぐれたる国


日本は昔から、「優れた良い国」だという認識があったことがわかります。

この授業の徳目は「集団の一員としての自覚」または「公徳心・よりよい社会の実現」です。
中学生には「思いやり」がわかりやすいでしょうね。
生徒に学んでもらいたいことは、以下の点です。

◆日本の伝統として、団結力がある。これは世界が驚く日本の美徳であることを知る。
◆団結力の大切さを知る。君たちもできるようになってほしい。
◆外国ではなかなかできないようなことを、当たり前のこととしてできる日本人は素晴らしい。


◎視聴する動画は、ユーチューブから拝借したものです。
1、「スズメバチ30匹 vs ミツバチ30000匹」
https://www.youtube.com/watch?v=IWI6_VEbsdA
2、「オオスズメバチ vs ニホンミツバチ」
https://www.youtube.com/watch?v=LLWZHg_TjA0

◎資料の1、2は「ねずさんのひとりごと『日本ミツバチの結束行動』」の記事をベースに中学生向けに要約しました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1547.html

◎「5の発問」は、横浜市小学校 安達弘教諭の先行実践を参考にしました。

では、授業をはじめます。

【発問1】--------------------
この虫は何ですか?
オオスズメバチ
------------------------

〔答え〕オオスズメバチ

『体長、なんと40ミリ。世界最大の蜂です』

【発問2】--------------------
では、この虫は?
ニホンミツバチ
------------------------

〔答え〕日本ミツバチ

『体長15ミリしかありません。かわいいですね。
日本の固有種です』

『今から動画を見ます(約7分)。
「1.オオスズメバチvs西洋ミツバチ」
「2.オオスズメバチvs日本ミツバチ」の戦いです。
結果はどうなると思いますか?
あっという間にすごいことが起こります』

《動画を見たあとの生徒の感想》
・小さな日本ミツバチがオオスズメバチを倒したことに驚いた。
・スズメバチは怖い。日本ミツバチは賢いな~。
・日本ミツバチが団結している様子が素晴らしかった。
・日本ミツバチは一斉に行動していた。ビックリした。
・日本ミツバチは西洋ミツバチと違って作戦ができていてすごいと思った。
・熱で攻撃をするのはすごいアイディアだなと思いました。
・オオスズメバチ1匹のために日本ミツバチが数十匹も命を落とすのはもったいないけど、団結力はすごいと思いました。

◆【資料1】を範読します。

【資料1】ニホンミツバチの勇気ある行動 *******

ミツバチは、誰でも知っていますね。
ミツバチには、日本古来の「日本ミツバチ」とハチミツを採るために養殖する「西洋ミツバチ」がいます。
西洋ミツバチは、日本ミツバチより少し体が大きくて、黄色っぽい色をしています。
一方、日本ミツバチは、小柄で黒っぽい色です。
日本には古くから日本ミツバチがいるのですが、日本で養蜂(「ようほう」と読みます)に使われているのは、西洋ミツバチです。これは、明治時代以降に導入したものです。

日本ミツバチがいるのに、なぜ養蜂には西洋ミツバチを用いるのでしょうか?
西洋ミツバチの方が働き者だから?
たくさん蜜を取ってくるから?
そうではありません。
実は、日本ミツバチはたいへん神経質な蜂なのです。
ですから、環境が変わると巣を捨てて移動してしまうので、養蜂に向かないのです。
要するに、日本ミツバチは「養殖される=奴隷にされる」ような生き方はできない、というわけです。

それとは反対に、養蜂場で飼育されている西洋ミツバチは、不思議なことにまったく野生化しません。
なぜ野生化しないかというと、できないのです。
その理由は、日本にはミツバチの天敵である恐ろしい「スズメバチ」がいるからです。
ミツバチと比べて何倍もの体格を持つスズメバチは、ミツバチの巣に飛来すると、巣の前でホバリング(停止飛行)をして待ち構えます。
そして、帰ってきたミツバチを強力な前足で捕らえるのです。
木の枝などに後足で逆さにぶら下がり、ミツバチの頭、羽、足、腹を、鋭いアゴで切り落として、胸の部分だけを肉だんごのようにまるめます。
これを巣に持ち帰って幼虫のエサにするのです。

さて、ハチといえば「刺す」ものですね。針は毒針です。
ミツバチの毒針は、逆(さか)トゲがついています。で
すから、刺すと針が抜けて相手の体内に残ります。
効果は大きいのですが、一匹が一本ですから、針を失ったミツバチは、死んでしまいます。
ところが、スズメバチは、針に逆トゲがありません。
したがって、毒が続く限り、何度でも相手を突き刺すことができます。

さらに、スズメバチはその毒液をお尻から周囲にまき散らします。
この毒液は「警報」の働きも持っていて、ニオイを感知した仲間がどんどん集まってきます。
こうして、スズメバチはミツバチの巣を襲い、捕食し、全滅させるのです。

ということで、養蜂場を逃げ出した西洋ミツバチが自然巣を作ったとしても、スズメバチに襲われてすぐに絶滅です。
たった1日で全部殺されます。
西洋ミツバチにとって、スズメバチは、まさに脅威なのです。
オオスズメバチの顔
《強靭なアゴを持つオオスズメバチ。
人間の命をも奪う強力な毒針もある。
とにかく顔が怖い!》


ところが、世界で唯一、スズメバチを撃退してしまうミツバチがいます。
そう、それが、あのかわいらしい日本ミツバチです。
どうやって撃退するのでしょうか。
これが実に日本的な戦い方なのです。

日本ミツバチの戦いは、お尻の毒針を使いません。
集団でスズメバチにとりつき、「熱死(ねつし)」させるという方法で、スズメバチを撃退してしまうのです。

日本ミツバチは、スズメバチが巣に近づくと、集団で出迎えます。そして、腹部を高く持ち上げ、一斉に左右に激しく羽を振ります。
「ミツバチダンス」と呼ばれます。
大軍で密集し、ブンブンと唸(うな)る日本ミツバチの姿。
これもまた、たいへん独特な特徴です。

******************(資料おわり)

【発問3】--------------------
巣に近づくスズメバチに、日本ミツバチが密集してブンブンと腹を左右に激しく振るのはなぜでしょう?

1.ダンスを見せてごまかす
2.大きな音でビビらせる
3.実はみんなで謝っている
4.その他
------------------------


◆資料2で答えを確認する。

【資料2】日本ミツバチの行動を通じて、日本人の心を知る

日本ミツバチが大軍でミツバチダンスをすると、どういう効果があるのでしょうか。
これをやられると、スズメバチは1匹の日本ミツバチに的(まと)を絞れなくなってしまうのだそうです。
巣の前で落ち着いて待ち伏せできなくさせて、スズメバチを追い払うのです。

〔発問3の答え〕4

それでも、スズメバチが侵入してきたら、どうするのでしょうか。
ここが実にすごいのです。

「日本ミツバチ」は、あっという間に集団でズズメバチに飛びかかります。
そして、瞬く間に直径5㎝ほどの「蜂球(ほうきゆう)」をつくるのです。
まさに一瞬の出来事、集団でスズメバチを蜂球の中に閉じ込めてしまいます。
蜂球の中では、内部の温度が急激に上昇します。
その温度は、4分以内で46℃以上に達します。
そして、約20分間、約45℃前後の高温が維持されます。
その後、ゆっくりと外気温と同じ温度まで下がります。
あとには、大きなスズメバチの死骸が一つと、いくつかの小さな日本ミツバチの死骸が残されます。

スズメバチが動かなくなって数分経ったころ、日本ミツバチたちはその場を離れ、巣の中に戻っていきます。
そして、何事もなかったかのように、自らの仕事を再開するのです。

何でスズメバチは死んでしまったのでしょうか。
実は、これは日本ミツバチとスズメバチの「致死温度」の違いを利用した戦い方なのです。
日本ミツバチの致死温度の上限は50℃です。
これに対し、スズメバチは45~47℃で死んでしまいます。
日本ミツバチは、そのわずかな致死温度の違いを利用して、スズメバチを倒すのです。

1匹のスズメバチを倒すために、日本ミツバチは数匹から数十匹が命を失います。
ミツバチの方が圧倒的に被害が大きいですね。
しかし、日本ミツバチは我が身を犠牲にして「命」をかけて、巣と仲間を守るのです。
これが、世界でただひとつの、日本ミツバチだけが持つ「スズメバチ撃退法」なのです。

我が国の国歌である君が代の歌詞は、もちろん知っていますね。
   君が代は 千代に八千代に
   さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで


この中に「さざれ石の 巌となりて」という一節があります。
「さざれ石」とは「細石」と書き、ちいさな小石のことです。
それが集まって大きな岩石を形成していく、ということです。

日本ミツバチの団結力は、まさにこのことですね。
必殺の毒針ではなく、集団の結束力で、強大なスズメバチを撃退するのです。
一人ひとりの力は弱くても、みんなで協力して、巣(国や社会)を支えているのです。

日本ミツバチの勇気ある行動は、「団結」というもののすごさをあらためて私たちに教えてくれます。
ミツバチだってやっているのですから、私たち人間にできないことがあるでしょうか。

******************(資料おわり)
ニホンミツバチ2

【発問4】--------------------
資料2を読んで、感心したことは何ですか?
------------------------


《生徒の感想》
・自分の身を犠牲にしてまでオオスズメバチをやっつけていて、かっこいい。
日本の武士が頭に浮かんだ。
集団戦法というところも日本ぽいなと思った。
・日本ミツバチは、自分が犠牲になってもいいという覚悟で立ち向かっていくのは本当にすごいことだと思う。
・自分が犠牲になっても巣や仲間を守るのがすごいと思った。
人間は、相手より自分という感じがあるけど、ミツバチは仲間を守るために命を捨てられるなんてすごいです。
・団結力がすごいと思った。
1匹じゃ無力でも、100匹以上いればすごいことができる。
・命をかけて協力し、団結してスズメバチを倒した日本ミツバチはかっこいいなぁと思った。
ミツバチはすごく人間らしい生き物だな。
・まさに日本らしいハチだと思った。
西洋のハチはスズメバチに対して何もできないのに、日本ミツバチは勇敢に戦う。
それがすごいと思う。日本のハチの武士道?!って思った。
団結すれば弱い者も強くなれる。
・オオスズメバチは1匹でも強いけど、小さくて1匹では弱い日本ミツバチが集団で最強のスズメバチを倒すなんて、とてもすごい。日本ミツバチを尊敬してしまいます。


『写真は埼玉県の南浦和駅です。
みんなで何をしているんでしょう?』


s-平成25年7月22日午前9時 南浦和駅

◆資料3を範読します。

【資料3】南浦和駅の日本人************

読売新聞記事から…
「平成25年7月22日午前9時頃、さいたま市の南浦和駅で、停車中の京浜東北線磯子行きの電車から降りようとした30代の女性が足を踏み外し、電車とホームの間に挟まれた。

南浦和駅によると、駅員が電車内にいた乗客を降ろし、女性を引き上げようとしたがうまくいかず、車内やホームにいた利用客約40人が自主的に協力し、電車を押して隙間(すきま)を作った。
数回目に車体が傾き、駅員が2人がかりで女性の脇を抱えて引き上げると、周囲からは拍手がわいたという。
女性に目立ったけがはなかった。

車両とホームの隙間は約10センチ。
1両当たりの重さは約32トンだが、車体を押すことで隙間ができたという。
京浜東北線は最大で8分の遅れが出た。」

回 回 回

これ、日本人としては、当然の行為だと思います。
ところが、これに世界はとても驚きました。
世界はどのように報じたのでしょうか。


■アメリカのCNNテレビは、キャスターが
「日本から素晴らしいニュースです」と前置きし、女性救出を報じた。
キャスターは「生死に関わる状況で、駅員と乗客が冷静に協力した」と称賛。
「おそらく、日本だけで起こりうること」として、電車が約8分後に通常運転を再開したことも合わせて伝えた。

■イギリスのガーディアン紙は
「(駅員や乗客が)集団で、英雄的な行動を示した」と写真入りで紹介。

■イタリアのコリエーレ・デラ・セラのウェブサイトには
「イタリア人だったら眺(なが)めるだけだろう」。

■香港フェニックステレビのウェブサイトには
「中国で同様の事故が起きれば、大多数の人はやじ馬見物するだけだ」といった書き込み。

■ロシアのコムソモリスカヤ・プラウダには
「どうしてこんなに迅速に乗客が団結できたのだろうか」「他人の命に対して、我々ロシア人も無関心であってはならない」と、驚きのコメント。

■タイのニュース専門チャンネルTNNは
「日本の人々が生来の結束力を余すところなく示し、困っている人に助けの手をさしのべた、素晴らしいニュース」と紹介。
フェイスブック上では
「日本が、また世界を驚かせた」
「とっさにこのような行動ができる日本人は、どのような教育を受けているのか」との声。

■中国国営テレビの央視新聞は
「感動的な一幕」として報道。
「感動した!なんて人に優しいんだ」
「これが国民の民度だ!」
「日本人の民度には永遠に追いつけない」
「日本人の民度は本当に高いし、団結力が強い」など感動や民度の高さを称賛するコメント。

回 回 回

日本人の『絆』に欧米 カナダなどの人々が大絶賛!
88800超のいいね!を獲得
(news.infoseek)

◆素晴らしいよ! これがイギリスで発生したらどうなったと思う?
みんなポケットからi-phoneをだして写真撮影、facebookにアップロードするんだ!
◆アメリカでもありえない。そうだ皆写真を撮り始めるのが関の山だ。
◆シカゴは違う。皆、なにもしない代わりにブーブー1時間はたっぷり文句を言う。
◆よくやった! 出勤者達よ!
こんな大勢の人がたった一人のために行動を起こすなんてすばらしい。
◆なんて素晴らしい話!
一体これだけの人数をどうやったのか? イギリスでは無理。
◆これこそが「チームワーク」だ!
◆だから将来的に日本が世界を牛耳る日が来る。
彼らは目標を掲げて、それに取り組むことに長(た)けている。
◆日本人って本当に素晴らしい。いつも健全な精神の持ち主だって事がわかるよ。
◆日本に住んだことがあるけれども、彼らっていつも助け合って生活している。本当に素晴らしい文化。
◆だから日本って大好き! これこそが日本人よ!
◆津波のあの悲劇があった時も彼らはパニックにならずにきちんと並んで物を買っていた。
日本以外だったらすぐ暴動になっているところだ。
◆これは世界中の人達へのお手本だ。
◆日本人はいつも日本人なんだ!
◆すごい! 全てのヒーロー達が集結したような話。
◆こういう時の相撲レスラーだろ? 相撲レスラーはどこだ?
日本人はいつも他人を気に掛ける事が出来るんだ。
◆だから日本って世界のトップにいるのね?
◆同じことがウォタールー(カナダ)でもあったよ。
信じられないことに落ちてしまった人を皆、新聞紙で頭を叩(たた)いて責めたんだ。
駅員は、何度も何度も乗客に降りるように指示しなくちゃいけなかった。何度もだ。
でも乗客たちは口を揃えて「こんな事になったのは、私の責任ではないけど?!」と不平だらけだったんだ。
全くこんなコミュニティーは大嫌いだ。
◆日本には他のナショナリティーにはない「助け合い」「結束力」「譲り合い」「気遣い」の文化が今なお強く根付いている。

回 回 回

これからの日本を作っていくのは君たちです。
先人に恥じない生き方をしたいですね。


******************(資料おわり)

【発問5】--------------------
ニュースからは、次の3つの言葉が「日本人の特性」をあらわすキーワードになっていますね。
「①冷静さ ②優しさ ③団結力」です。
あなたは、この3つの中でどの特性を大切にして生きていきたいと思いますか?
その理由も書きましょう。
------------------------


《生徒の感想》
これがまた、とてもおもしろいです。

●「私は(冷静さ)です」を選んだ生徒の理由

・理由:冷静に考えることなく、行動してしまうことが多いので、冷静にやらなくてはならないことを考えて行動できるようにするため。
・理由:大変なことが起こってもパニックになったり、人を責めたりしないで冷静にやるべきことをやるのがすごいことだと思ったからです。
自分のことだけでなく、他人のことを考えて行動できることがすごいことなんだと思いました。
・理由:冷静さがなければ、優しさも団結力も生み出すことはできないと思うから。
・理由:常に慌てず、物事に冷静に対処することが大事だと思うから。

●「私は(優しさ)です」を選んだ生徒の理由

・理由:優しさがなければ、根本的に団結や助け合いにならないから。
・理由:優しい気持ちは人を笑顔にすると思うから、人としてそこを大切にしていきたいです。
・理由:優しさがあれば団結力を補えるし、団結力があれば冷静さが保たれるから、最も大切だ。
・理由:すべては優しさだと思います。「困っている人がいたら助ける」、そんなことは絶対に普通のことだと思う。
これを「優しいな~」と思うのはおかしい。
冷静さも団結力も優しさがなければやっていけないと思う。
・理由:私はよく家族や友達に助けられるので、それを他の人に(赤の他人でも)分けてあげたいと思うから。

●「私は(団結力)です」を選んだ生徒の理由

・理由:一人でやるよりも多人数の方が、いつもよりももっと大きな力になるから。
・理由:一人ではできない事も、助け合えばできることがあるし、いろいろな人と団結する方が人生楽しくしていけそうだから。

●「私は(すべて)です」と書いた生徒

・理由:冷静さだけでも優しさだけでも団結力だけでも、うまくいかないと思うから。
このすべてがそろったから、あのいいニュースが生まれたと思う。

◆全体を通しての感想◆

・日本人の特性が世界に認められているということを誇りに思い、自分自身もこの特性を持っていられるような人であろうと思う。
・日本がこのような国民性なのがうれしいと思った。
自分ではできないかもしれないけれど、精一杯がんばっていけたらいいと思う。
・日本ミツバチと日本人はとてもよく似ていると思う。
団結力や優しさを持っていれば、日本人であることに誇りを持って生きていくことができる。
・ミツバチと日本人の団結力は同じように素晴らしいなと思った。
日本人だけでなく、日本固有の動物にも日本のいいところが出ているのかなって思った。
このようなことを自主的にできる日本人ってすごいんだな。
これからも続けていきたい。
・自分を犠牲にして巣を守る日本ミツバチの性格が、日本人の性格に似ていると思った。
これからは、日本人の助け合いの文化を大切にしていきたい。
・優しさと団結力と冷静さが特性といわれる日本ってすごいと思います。誇りに思います。
・日本人ってかっこいいなぁって思った。
・日本って本当にすごいな-と思った。人もいいし、ハチもいい。
なんで昆虫と日本人が似ているのかな、ととても気になった。
・日本ミツバチと同じく、電車とホームの間に人がはさまった事件の時に周りにいた人の団結力はすごいと思いました。日本人でよかった。
・団結していれば、ケガ人も死人も少なくなると思います。日本は安全だと、久しぶりに思いました。

おわり

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道徳「大和心とポーランド魂」

2-(6)感謝の心
「大和心とポーランド魂~恩を忘れない」
               国際社会の友情



『平成23年の夏休み、岩手県と宮城県の中・高校生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。
「絆の架け橋プログラム」と言います。

実は、その15年以上前の平成7(1995)年の夏休みにも、30名の日本の小・中学生がポーランドに招待されていました。

前者は東日本大震災、後者は阪神・淡路大震災で大きな痛手を受けた子供たちでした』

◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

どうしてポーランドの人々は、こんなに日本の子供たちをいたわってくれるのだと思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


いつものことですが、…きっと何か秘話がある! と生徒は思っています。

『【資料1、2】を読みましょう』


【資料1】サムライの国・ヤポンスカ ■□■□■□■■□■□■□■

平成7(1995)年、両国の間を奔走してポーランドのワルシャワに日本の小中学生の被災児を招待したのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士である。

フィリペックさんの父親は、第2次世界大戦中、彼が3歳の時にドイツ占領下のポーランドでゲシュタポ(秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。
その後、彼はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。

「お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。
ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。

ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアの向こうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。
その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。

ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね。
サムライ魂を持っているんだ」

これがきっかけとなってフィリペックさんは日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。


【資料2】ポーランドの悲劇

なぜフィリペックさんは「神戸の小中学生被災児をポーランドに招待する」というボランティアに取り組んだのだろうか。

その背景には、大正時代における知られざる「日本-ポーランドの交流」の歴史が存在していたのである。

もともとポーランドは、東ヨーロッパの伝統的な王国だった。
ところが、1795年(寛政7年・江戸時代)にプロイセン・ロシア・オーストリアによって3分割され、ポーランドはすべての国土を失った。

そこでポーランドの愛国者たちは、地下に潜って独立運動を展開した。

しかし、そのたびに逮捕されて、家族もろとも流刑の地・ロシアのシベリアに次々と送られたのである。
祖国を失い、苛酷な環境に置かれたポーランド人。
苦難のはじまりであった。

流刑と言っても犯罪者ではない。
愛国者なのだ。
彼らはポーランドの心であるショパンの曲を胸に、独立の日を夢見ながら涙を流し、絶望の時を耐え続けていた。

この時から130年の歳月が流れ、世界を巻き込んだ第1次世界大戦が勃発した。
1919年(大正8年)、戦争が終結し、ヴェルサイユ条約によってようやくポーランドは独立できることになった。
それまで虐げられてきたポーランド人たちは喜びに湧いた。

シベリアに流刑にされたポーランド人は、10数万人。
彼らは長い間、肩を寄せあい、寒さと飢餓と伝染病と戦いながら生き抜いてきた。

最後の食べ物を子供に与えたあと、その子を抱いたまま息を引き取った母親も多かった。
こうして親を失った孤児たちの生活は極めて悲惨だった。

こんな状態だっただけに、どんなに待ちこがれた祖国の独立だったことだろう。

「やっと国に帰れるんだ!」

ところが、シベリアのポーランド人は祖国に帰れない事態になってしまった。
なぜなら、大戦中に起きたロシア革命で誕生したソ連が、ポーランドと戦争を始めたからである(1920年春)。
そのため、唯一の帰国ルートであったシベリア鉄道が利用できなくなってしまったのだ!

ロシアのウラジオストックに住むポーランド人によって結成された「ポーランド救済委員会」が、かわいそうな孤児たちを救おうとしたが、なかなか救援活動は進まなかった。

そこで、救済委員会はヨーロッパやアメリカの政府に救援を依頼した。
しかし、シベリアのポーランド人は再び絶望に陥った。
なぜなら、欧米諸国は彼らの救援要請をことごとく拒否してきたからである。

飢餓と伝染病に苦しむ孤児たちの命は、最大の危機に直面していた…。

(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


◆ 発問2 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

ポーランド孤児たちは、この後どうなったと思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


『【資料3】で確認しましょう』


【資料3】ポーランド孤児を救出せよ! ■□■□■□■□■□■□■□

欧米諸国が、ことごとくポーランドの要請を拒否するなか、

「よし、手を貸そう!」

と名乗り出た国が唯一存在した。

それが日本だった。
日本赤十字社とシベリアに出兵中の陸軍兵士たちが、機敏な行動をおこした。

孤児の一人で、日本に助けられたダニレビッチ氏は当時の状況をこう語っている。

「街には、飢えた子供があふれていましたね。
その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』と、せがむのです。

日本のヘイタイサンは、やさしかった。
わたしも、キャラメルをもらったことがあります。

孤児の中には空腹をまぎらわそうと、雪を食べている子供もいました。
シベリアはもう、まったくの地獄でした」

事態は一刻の猶予もなかった。
日本赤十字社と日本陸軍の兵士らは、酷寒のシベリアの地に入って行って
「せめて親を亡くした孤児だけでも助けよう」と
悪戦苦闘した。

救出した孤児たちを保護しながらウラジオストックまで行き、そこから東京と大阪に船で次々と送り出した。

なんと、日本政府が救済の決定をした2週間後には、56名の孤児を東京の宿舎まで届けている。
鮮やかな救出劇だった。

日本は、以後3年間で合計765名の孤児たちを救い続けたのである。

しかし、孤児たちは飢餓と重い伝染病で衰弱しきっていた。
大量の孤児を受け入れた日本国内の施設では、看護婦が付きっきりの看護に当たった。
ほとんどの孤児たちは、ここで初めて大人の優しさに触れたという。

もはや手遅れと思われた腸チフスの少女の看護にあたった21歳の看護婦・松沢フミは
「死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」
と毎晩少女のベッドで添い寝をした。
その甲斐あって、少女は奇跡的に命をとりとめたのである。

しかし、その様子を見届けた松沢看護婦は亡くなった。
腸チフスに感染したのである。
みずからの命を捧げてまでも異国の不遇な子供に尽くしたのだ。

日本に来たポーランドの孤児と日本赤十字社の看護婦

『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』という本には、ポーランド在住の松本照男氏の証言が紹介されている。

<日本に収容されたポーランド孤児たちは、日本国民朝野を挙げて多大の関心と同情をよんだ。
慰問の品を持ち寄る人々。
無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち。
学生が音楽会の慰問に訪れ、婦人会や慈善協会は子供たちを慰安会に招待した。
寄付金を申し出る人はあとを絶たなかった。

1921年4月6日には皇后陛下(貞明皇后)も日赤本社病院を訪問され、孤児らと親しく接見された。
貞明皇后は3歳の女の子を召されて、その頭をいくども撫でながら、健やかに育つようにと、お言葉を賜れた。>

日本に来たポーランドの孤児

こうした献身的な看護によって、子供たちは次第に健康を取り戻していった。
そこで、回復した子供から順次、8回に分けて祖国ポーランドに送り届けることになった。

横浜港から出航する時、幼い孤児たちは泣いて乗船するのを嫌がった。

なぜだろうか?

親身に世話をしてくれた日本人は、孤児たちにとって、すでに父となり母となっていたのだ。

孤児たちは泣きながらも、見送る日本人に「アリガトウ」を繰り返した。
そして、滞在中に習い覚えたのであろう、なんと日本の国歌「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したのである。

祖国ポーランドに帰った孤児たち

子供たちをポーランドに送り届けた日本人船長は、毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとりの毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
「その手の温かさを忘れない」と一人の孤児は回想している。

(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


◆ 発問3 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んで、
感じたことや感心したことを書いて下さい。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


『命を救われたポーランド孤児たちは、どんなに感謝したでしょうか。
当時の日本人の人道的な優しさに感心しますね』

(それにしても当時の国際社会のレベルはどう? ちなみに日本の国是は「八紘一宇」でした)


『【資料4】を読みましょう』

【資料4】日本のみなさん、ありがとう ■□■□■□■□■□■□■□■

日本人のこうした崇高な行為に対して、フィリペック博士は
「ポーランド人として、いつかこの恩返しをしたい」
と考え続けていた。

大正時代のポーランド孤児救済活動から75年目を迎えた平成7(1995)年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。
ポーランド政府は、ただちに日本への救援活動を開始した。

その後、日本の被災児をポーランドに招いて激励してくれたのである。

そう、その背景には、大正時代に孤児を救った日本人に対する感謝の気持ちが込められていたのである。

ポーランド極東委員会副会長だったヤクブヴィッチ氏の
『ポーランド国民の感激、われら日本の恩を忘れない』
題した手紙がある。
ここには次のような感謝の言葉が綴られている。

「日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。

しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてこの恩を忘れることはない。

我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の悲惨なのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までも取って、ポーランドの子供たちに与えようとした。

こんなことは一度二度ではない。しばしばあった。


ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。

ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい 」


そして、震災4年後の平成11(1999)年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団は、88歳の老婦人ヘンリク・サドフスキさんからの次のようなメッセージを持参してきていた。

「 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。
合唱団は私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
日本のみなさん、ありがとう 」

さらに、サドフスキさんは
「一番大事にしている物を皇室に渡してほしい」
と75年間、大切に持ち続けていた当時の写真を託していた。

この時、
「孤児収容所を慰問した皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」
と言い、
「遠い思い出の中に、孤児だった自分たちを心から慈しんでくれた母のごとき貞明皇后が、今も鮮やかに目に浮かぶ」
と話したという。

『毎日新聞』平成11年8月4日
大和心とポーランド魂 毎日新聞.jpg

(資料ここまで)■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

『大正の日本人は孤児を一人も死なせませんでした。
これが、阪神淡路そして東日本大震災で、ポーランドから惜しみない援助が贈られた理由です。

名も無き庶民にまで高貴な精神が息づいていた大正時代の日本でした。
ヤクブケヴイッチさんが言ったように、現代日本の私たちもポーランド人や大正の日本人のように
「高尚な国民」
でありたいですね』

◆ 発問4 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

「高尚な国民」とはどのようなものか、
自分を振り返って感じたことを書きましょう。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



●今の中学生に「高尚」という言葉は難しかったようである。

高尚とは「品性が気高くて、立派なこと」。
その反対が「低俗」。
と示した。

●何の見返りも求めずに最善を尽くした大正日本人の偉さに感動する。
また、
受けた恩を忘れず、当然のことのように恩返しをするポーランド人の偉さにも感動する。
ともに「高尚な国民」である。

●こういう素晴らしい事実を、今の日本人の多くが知らないことが問題ではないかと強く思う次第である。

●生徒には、今の自分を振り返って、
「気品ある優しさはあるだろうか」「そんな人になれるだろうか」
と考えてもらいたい。

兵藤長雄著「善意の架け橋」1

兵藤長雄著「善意の架け橋」表紙

(終わり)

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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
横浜・神奈川の志ある先生の参加をお待ちしています!
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