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【昭和天皇 終戦への道】 どうやって戦争を終わらせることができたのか?

【昭和天皇 終戦への道】
どうやって戦争を終わらせることができたのか?

※ 授業の流れを追うように記述します。
※ (    )内は、板書して生徒に書き込ませます。

①アメリカの世論調査「天皇をどうするか」(1945年)
 【資料1】
  殺せ。拷問して餓死させよ 36%
  戦争犯罪人として扱え 7%
  処罰または流刑にせよ 24% 
  ↓
 アメリカ人は 昭和天皇のことを
 ヒトラーのような(1   独裁者   )と考えていた

②御前(ごぜん)会議(天皇臨席のもとで行う最高会議)までの流れ
■昭和天皇の意を受けた鈴木貫太郎(かんたろう)首相は和平工作に力を尽くしていた。
  「早く終戦にしなければ、日本が滅びてしまう!」
  5月から 日本は中立条約を結んでいたソ連にアメリカとの仲介を依頼する → 回答は届かず。
  7月26日 (2   ポツダム宣言 =日本の降伏条件 )が発せられる。
     → 原爆を使いたいトルーマン大統領は、天皇を容認する条項をわざと削除した
     → そのため日本はポツダム宣言を受諾できないまま
     → 8月6日に(3 広島  )に原爆投下
  8日 ソ連が中立条約を破って、日本に宣戦布告
     → 満州になだれ込んできた。
  9日未明 最高戦争指導会議が開かれる
     → 会議の最中、(4  長崎  )に2発目の原爆投下。

■事態は一刻の猶予(ゆうよ)も許されぬ状態に…
  →9日深夜から緊急の御前会議が開かれる。

③昭和20(1945)年8月9日深夜、御前会議
  昭和天皇
鈴木貫太郎首相

   東郷茂徳(しげのり)外務大臣  → この際、ポツダム宣言を
 枢密院(すうみついん)議長        受諾して戦争を 
 海軍大臣                   終わらせるべきである
V.S
阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣 → 涙と共に
陸軍参謀総長          ↓ 訴え
海軍軍令部総長              ↓
    今日(こんにち)なお我が戦力は絶滅したわけではなく、
    本土決戦は必勝とは言えないが、必敗と決まっている
    わけではない。地の利があり、人の和がある以上、必
    ずや敵に大打撃を与え得(う)ると確信している

■会議の結果は、
①「天皇の地位を変更しない」(国体(こくたい)の
  護持(ごじ))という条件のみで受諾(じゆだく)を主張
     →東郷外務大臣ら3名。
②加えて占領・武装解除・戦争犯罪処置
 に関する合計4条件での受諾を主張
     →阿南陸軍大臣ら3名。

●鈴木首相を除いて、「降伏」と「戦争継続」の票は、3対3に割れてしまいました
 ここで鈴木首相が①に賛成すれば、4対3の多数決で議決できます。
 しかし、これでは戦争継続派を納得させられません。
 鈴木首相は、静かに昭和天皇の前に進み、
 大きな体をかがめて礼をして、言いました。
 「遺憾(いかん)ながら3対3のまま、なお議決することができません。
  この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、
  御聖断(ごせいだん)(天皇の決定)を拝しまして、
  本会議の結論といたしたいと存じます」。

●決定ができない政府首脳…、昭和天皇は、どのような決断をされたのでしょうか?

④御聖断(ごせいだん)、下(くだ)る (内閣書記官長・迫水久常(さこみずひさつね)証言より)
 【資料2】
10日午前2時ごろのことでした。天皇陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして
「みなの者は自分の意見に賛成してほしい。自分の考えは、この戦争を無条件に終結することに賛成である」と仰せられたのであります。部屋は、たちまちのうちに号泣(ごうきゆう)する声に満ちました。陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。やがて白い手袋をおはめになったお手で、両頬(ほお)をおぬぐいになりました。
「もし本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。それゆえ、まことに堪(た)えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、私がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい」

⑤ポツダム宣言受諾(じゅだく)を回答
■鈴木首相はポツダム宣言受諾を回答
 → アメリカ国務長官バーンズの返答は…、
・「天皇と日本政府の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれるもの」とする
・「日本国の政府の形態は、日本国国民の自由意思により決定されるべきもの」とする
      日本側が一番聞きたい「天皇の地位」に
      ついては、はぐらかしていた!
そのため、

⑥8月14日午前10時50分、2度目の御前会議
 【資料3】
阿南陸相は溢(あふ)れる涙をふきもせず、降伏反対を訴えました。一同シーンとして声もなく、陛下もたびたび眼鏡をもち上げ、白手袋を瞼(まぶた)にあてました。そして、陛下は静かに口を開かれました。
「私の考えはこの前申したことに変りはない。陸海軍の将兵にとって武装の解除なり占領というようなことはまことに堪(た)え難(がた)いことで、その心持ちは私にはよくわかる。しかし自分はいかようになろうとも国民の生命を助けたい。この上、戦争を続けては結局我が国がまったく焦土(しょうど)となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私としてはじつに忍び難(がた)い。堪(た)え難(がた)きを堪(た)え、忍び難きを忍び、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば必ずできると思う。私も国民とともに努力する。この際、私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ」

翌15日、異例の(5  玉音放送   )が流され、国民は泣き崩れました。
  あの勇敢な日本軍が静かに降伏し、国民も整然と行動しました。その姿は世界の人々を驚かせました。

⑦敗戦時のヒトラーは… (ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最後の12日間』より)
1945年3月19日(自殺の1ヶ月半前)、敗戦を前にヒトラーは次のように語っている。
 【資料4】
「戦争に負ければ国民も終わりだろう。ドイツ民族がこの先、原始人のように生きていくために必要な基盤(きばん)など考慮してやる必要はない。それくらいなら、そんなもの自分の手で破壊した方がましだ。なぜなら、この民族はみずからの自分の弱さを証明したからだ。…この戦いの後に残った者など、どうせ価値のない者たちだ。良い者たちはすでに戦死したからだ」

⑧昭和天皇の大御心(おおみこころ)(=天皇のお気持ち)
終戦の御聖断(ごせいだん)は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものです。それは「国民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。日本のような立憲君主制は、危機に直面して政治が機能しなくなった時には、君主が直接判断するという構造になっています。
 数十年後、昭和天皇が御聖断(ごせいだん)を下された心境を詠(よ)まれた歌が発表されています。
(6 身はいかに なるとも戦さ とどめけり
   ただたふれゆく 民を思ひて
)

●個人にしても国家にしても、その本性は危機の時こそ明らかになります。ヒトラーの国民観・国家観と比べてみた時、国民の指導者としての昭和天皇の生き方・ご決断をどう思いますか?
感想を書かせて終わり。syouwatennou-3.jpg












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Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
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