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承久の乱(承久の変)を考察する

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 やってみよう! 作ってみよう!
 授業づくりJAPAN


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《承久の乱を考察する》

今日は、資料を読んで考える授業です。
また、自分はどちらの立場に立つのかの判断もします。
当時の人々がどう思っていたかを知ることはとても大切です。
これを通して、日本人にとって皇室とはどのようなものかを認識することができます。



【資料①】幕府政治乱れる ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

頼朝亡き後、鎌倉幕府の政治は乱れました。

二代将軍・頼家はまだ18歳、凡庸な性格で遊楽にふけっています。
幕府の政治は、有力な御家人たちによる合議制(話し合いでことを決める政治)になりました。

この機をとらえ、執権・北条義時は幕府の実権を握り、政治権力を揺るぎないものにしようとしました。
義時は10年あまりで、有力御家人を次々に滅ぼしていきます。
梶原景時、比企能員(ひきよしかず)、畠山義忠、和田義盛ら幕府を支えた御家人を次々と殺し、頼家の跡継ぎである長男の一幡も焼き殺されてしまいました。
結局、将軍の頼家自身も幽閉され、やがて殺されました。
そして、12歳の若さで、三代将軍に即位したのが頼家の弟・実朝でした。

北条義時が政治をほしいままにしている様子を遠く京都の地で、憂いを持って見ていた人がいました。
それが、後鳥羽上皇です。

「幕府の政治が乱れている。ひどい有様だ。
このままでは日本がダメになってしまう。
何とかしなければ…」


後鳥羽上皇は悩みました。
幸い、将軍の実朝は朝廷を敬う気持ちを強く持った人でした。
後鳥羽上皇は実朝に協力を要請することにしました。

「朝廷と幕府、力を合わせて政治を立て直そうではないか…」

後鳥羽上皇の呼びかけに実朝は大いに感じ入り、応えようとしました。
しかし、幕府の実権を強めたい義時が、それを承知するわけはありませんでした。
1219年1月、義時は頼家の次男・公暁(くぎょう)をたぶらかし、将軍実朝を殺させてしまいました。

実朝暗殺の報を聞いた後鳥羽上皇は深く悲しみました。
それに追い打ちをかけるように、鎌倉から驚くべき要請が届きます。
義時は将軍暗殺の陰謀が露見しないように犯人の公暁を殺してしまったので、頼朝の正当な跡継ぎは絶えてしまいました。
そこで義時は、次の将軍として何と後鳥羽上皇の皇子を要求したのです。
将軍は朝廷の臣下ですが、皇子は朝廷の臣下ではありません。
皇子が将軍に就任すれば、朝廷と幕府の立場は対等になってしまいます。

当然、上皇は反対しました。
その後、もめましたが、最終的には頼朝の妹の孫が生んだということで、左大臣藤原道家の子を将軍として迎えることに決定しました。
四代将軍・頼経です。わずか2歳の幼児でした。

これまで、幕府との融和に努めてきた後鳥羽上皇でした。
しかし、実朝の暗殺や皇子を将軍に据えようという義時の横暴な要求に「倒幕」を決意します。

そして、ついに承久3年(1221年)5月、上皇は各地の武将に

『北条義時追討の院宣(院の命令)』

を発しました。
西国の武士たちの多くが一斉に上皇の味方に名乗りを上げ、挙兵しました。
あわてたのは幕府です。
鎌倉方の東国武士たちは急を聞いて、続々と鎌倉に集まってきました。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 発問 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

あなたが鎌倉武士だったら、
どっちの味方に付いて戦いますか?
【資料②③】を読んで、決断しなさい。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


【資料②】幕府と朝廷が実効支配している領地の分布

s-幕府と朝廷が実効支配している領地の分布

●どっちが、どちら側でしょうか?
     ↓
  ・網掛け部分=(a)の支配地域
  ・白い部分  =(b)の支配地域


    ※答え:a=幕府、b=上皇

●どっちが強そう?


【資料③】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

後鳥羽上皇『北条義時追討の院宣』

近頃、「関東の成敗」と称して、鎌倉の政治はたいへん乱れている。
将軍がいるといっても、まだ幼い年齢である(将軍頼経は4歳)。
そのため、北条義時は何事につけても尼将軍の北条政子の命令であるということにして、ほしいままに政治や裁きを全国に及ぼしている。
加えて、自己の権勢を誇り、朝廷の決めた決まり事を忘れてしまっているようである。
これは、まさしく「謀反」というしかあるまい。
早く五畿七道・諸国に命令を発し、義時を追討させよ。
また、諸国の守護・地頭は訴えるべきことがあれば、院庁へ来なさい。
きっと取り上げ、訴状に従って裁きをしよう。
承久三年五月十五日

尼将軍・北条政子『御家人に対する演説』

日本中の侍ども、昔は3年の大番役(京都の警備)の時、一生の大事と考え、従者に至るまで着飾って都に上ったが、帰る時には疲れ果てて、裸足で戻ってきたものだ。
それを、今は亡き頼朝殿が哀れに思われて3年を半年に縮めてくださった。(中略)
みな心を一つにせよ。
これが最後の言葉である。
亡き頼朝殿は朝廷の敵(平氏)を討ち、幕府を開いて以来、皆に与えられた官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。
その恩に報いる気持ちが浅いはずがなかろう。
しかし今、悪い臣下のさしがねによって朝廷は不当な命令を下された。
名誉を重んじる者なら、早く三浦秀康・胤義(たねよし)ら(後鳥羽上皇に味方した武士)を討ち取り、三代の将軍の遺跡を守りぬくのだ。
院に味方しようとする者は、今すぐここで申し出よ。
承久三年五月十九日

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◎○◎ 決断 ◎○◎

あなたはどちらに付いて戦いますか?

○を付けよう。
 〔 後鳥羽上皇 ・ 北条義時 〕

その理由を述べなさい。



『こうして承久の乱が始まりました。
結末はどうなったのでしょうか』

【資料④】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

後鳥羽上皇側の軍勢は1万数千。
一方、北条義時の命を受けた息子の泰時が鎌倉を出立した時の手勢はわずか18人でした。

しかし、泰時が京都に到着した時、その軍勢は何と19万人にふくれあがっていました。
御家人ら武士にとって、頼朝の「御恩」はやはり大きかったといえるでしょう。

鎌倉を出る時、泰時は父の義時にたずねました。
「もし、上皇自らが出陣された場合はどうすればよいでしょうか」

義時は
「その際は弓を折って降伏せよ。
されど、それ以外は千人が一人になっても闘い抜け」
と命じました。
しかし、上皇が自ら戦場に立たれることなどあり得ません。

双方の兵力差は10倍以上。戦いは幕府側の一方的勝利で終わりました。
乱のあと、何と
後鳥羽上皇は隠岐の島に、
順徳上皇は佐渡島に、
土御門(つちみかど)上皇は土佐(高知)に流罪になりました。
さらに時の仲恭(ちゅうきょう)天皇も退位させられました。

これは我が国の歴史上、前代未聞のことです。

また、上皇方に付いた武士はほぼ全て処刑。
その没収した領地の数は3000にものぼりました。
源平合戦で没収された平氏の領地が500だったことと比べると、いかに厳しい処置かわかります。

その上、義時は京に六波羅探題を設置し、朝廷を監視することにしました。

この大事件を当時の人々は、どのように見たでしょうか。
『明恵上人(みょうえしょうにん)伝記』を紹介します。

華厳宗の僧・明恵は、京都・高山寺の住職をしていました。
北条泰時が上皇方の武士や貴族を次々と捕らえて処刑・流罪にする中、情け深い明恵は、逃げ込んだ武士たちをかくまいました。
これを知った泰時の部下が寺を襲撃。
明恵にも縄をかけ、六波羅の役所に引き立てました。

これを見た泰時は驚いて、自ら明恵の縄を解き、
「いったい、どうされましたか」
とたずねました。
明恵は、

「栂尾(とがのお)(=高山寺のある山)は殺生を許さない山ですし、私は仏に仕える者です。
鷹に追われる鳥があればこれを助け、猟師に追われる獣があればそれを保護してきました。
まして人が救いを求めてくれば、これを助けないはずがありません。
今後も保護したいと思います。
それがいけないというのであれば、私の首をはねてください」


と落ち着いて言いました。
泰時はたいへん感心して、明恵をそのまま寺に帰しました。

しばらくして、泰時は明恵に教えを受けに出かけました。
この時、明恵は泰時に向かって言いました。

「日本は神代(かみよ)の昔から一系の皇室が受け継ぎ、今に続いています。
それゆえ、天皇のご命令には従わなくてはならないのです。
それが嫌というのであれば、日本の国から出て、支那(中国)へでも天竺(インド)へでも行けばよいのです。

しかるに、承久の変では都に討ち入り、上皇たちを遠い島々に流し、多くの人を殺すとは…。
これらの残酷な処置は全く道理をたがえたもので、とても天のとがめをまぬがれることはできまい」


と、厳しく泰時を叱責しました。
泰時はただただ恐れ入って、深く頭を下げたといいます。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【まとめ】
「承久の乱」をどう思ったか、感想を書きなさい。



授業はここで終わりますが、時間が許せば
もう一つ、当時の人々の考えがうかがえる次の資料を読みましょう。

【資料⑤】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

鎌倉時代第一の歌人藤原定家。
承久の乱14年後の1235年、72歳の定家は幕府の有力者の一人である藤原頼綱から依頼を受けました。
それは、京都の小倉山にある別荘のふすまに飾る歌を選んで欲しいというのです。

そこで、定家は大和時代から鎌倉時代までの優れた歌人百人から一首ずつ和歌を選定しました。
定家の選んだ百首の名歌は、これ以後、和歌を習う人の手本となりました。
全体に恋の歌が多く、あでやかな歌集です。
江戸時代以降は、かるたの遊びとして広く親しまれるようになり、現代にも受け継がれています。
これが「小倉百人一首」です。

百人一首は天智天皇からほぼ年代順に配していますが、その99首目と100首目の歌は、なんと承久の乱で流罪にされた後鳥羽上皇・順徳上皇父子の歌が選ばれているのです。

定家が百人一首を選定している時、後鳥羽上皇も順徳上皇もそれぞれ隠岐・佐渡に御存命中でした。
しかも、依頼した藤原頼綱は幕府側の要人でもありました。
その要人の別荘に飾られる色紙の最後に、定家が流罪中の二上皇の歌を選んだのです。
しかも、その締めくくりの最後に…。
なぜでしょうか。

そこには、定家の「承久の乱」に対する思いが込められていると考えるほかありません。

では、二上皇の歌をそれぞれ鑑賞してみましょう。
後鳥羽上皇の歌は、上皇32歳の時、「承久の乱」の9年前の作です。
また、順徳上皇の歌は上皇がまだ天皇に在位中、19歳の時、「承久の乱」5年前の作です。

人もをし人もうらめしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は  (後鳥羽院)


[歌意]
ある時は人を愛(いと)しく思い、ある時は人を恨(うら)めしく思う。
不如意な人生を思い悩む自分の性格のゆえにか。

ももしきやふるき軒ばのしのぶにも
なほあまりある昔なりけり  (順徳院)


[歌意]
宮中の古びてしまった軒端(のきば)に生えた忍草(しのぶぐさ)を見るにつけ、忍んでも忍びきれないのは昔の時代のことであるよ。

さて、その定家自身もこの百人一首に自らの歌を選定しています。
97番目に置かれたその歌は、

こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ  (権中納言定家)


[歌意]
やって来ないとわかっている人を夕暮れ時の浜辺で待つ私は、松帆の浦の夕凪に焼かれる藻塩のように、じりじりと恋い焦がれている。

定家の歌は、約束にやって来ない男を待ち続ける女の恋心を詠っていると言われています。
しかし、本当に女の恋心の歌なのでしょうか。
定家が思い続けている「来ぬ人」とは、誰でしょうか…。

あえて「百人一首」の最後に二上皇の歌を選定した定家の真意を想像して下さい。
もしかしたら、この「来ぬ人」とは後鳥羽上皇・順徳上皇をはじめとする、
我が国の国柄を守ろうとして戦い、そして散っていった二度と戻っては来ない人々のこと
を指していたのかも知れませんね。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

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プロフィール

服部 剛

Author:服部 剛
授業づくりJAPAN横浜《中学》の代表・服部剛です。中学校社会科教師です。
授業づくりJAPANは、授業実践を通して「国を思い、先人に感謝し、卑怯をにくむ日本人」「日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人」を育てます。
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